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The life of fiskflickan

大抵常に何かくだらないけど面白いことを考えています。
そんなわたしの頭のなかで起こっているランダムなことを書いていきます。

わたしはここ数年、自分のことを「ネガティブ」でどちらかといえば後ろ向き、
陰か陽かといえば陰なのだと思ってきた。

自分を認めてやる為にそれでもいいと思ってきた。

スウェ-デンに来てから、学校等でバックグラウンドの違う色々な人を見たり知り合ったりして、
彼らの言動や自分との違いを感じることが出来、
「自分」というもの、過去やなんかについて今まで以上に深く考え込む(学習するともいえるだろう)機会が増えた。

それに加え、最近成り行きでパ-トナ-の昔の心理学の教科書の興味があるチャプタ-をなんとなく読んでいて「自分」に対しての劣等感(本当はなんと表現していいかわからないような感情なのだが・・・)のようなものから少し抜け出せた気がする。

世の中では「ポジティブ」は良いもので「ネガティブ」は悪いもの、といったイメ-ジが持たれているとわたしは思う。

では、一体「ポジティブ」、「ネガティブ」とは何なのか?
何を持って一人の人間を「ポジティブ」、「ネガティブ」と判断することができるのだろうか?
わたしには答えが出せない。

栗原類さんというモデルさんは「ネガティブ」が売り文句のようになっていたが、
わたしは彼が「ネガティブ」だとも思わないし、ただの謙虚な男の子にしか感じない。

「ポジティブ」、「ネガティブ」とはなんなのか?

いつも前向きで常に頑張り続け、否定的なことを口にしない人間が「ポジティブ」なのか?
この「ポジティブ」とは誰目線なのか?

例えば、他人の前ではいつも笑顔で口癖は「頑張る!」、愚痴も言わない子が一人になれば例えば自傷していたり過食嘔吐していたり、もしくはインタ-ネットで他人の悪口を撒き散らしていたりしていた場合、それは本当に「ポジティブ」な人といえるのだろうか?
他人目線では「ポジティブ」、しかし、その人の本物の人生は「ネガティブ」なのではないか?

わたしは長い間、「ポジティブ」という言葉に苛立ちを感じながら生きてきた。
少し食わず嫌い的な部分もあったのと、なんだか夢見がちで現実逃避をしている人たちが多く発する言葉だと思っていたのもあるのだと思う。

数年前、鬱状態だった時期があった。
その時、周りから「ポジティブ」になることを押されることがあった、というかわたしは押されていたと取っていた。
「ネガティブ」な人扱いを受けたのかもしれない。今となってははっきり思い出せない。
しかし、いつの間にかわたしは自分は「ネガティブ」な人間なのだ、と思い込んでしまっていたのだ。
もし、人のせいにする言い方をしたとしたら、わたしは「ネガティブ」な人間だと思わされていた(刷り込まれていた、誘導されていた)のだ。


今日も色々と考えていて、「はっ」と気づいたのだ。

「わたしは本当は『ネガティブ』な人間じゃない。」

「ポジティブ」ではない、しかし、「ネガティブ」でもないのだ。

最近、ある人の書き込みにコメントしようとしたのだが、
わたしが書こうとした内容は世間一般に良いと思われるような
「やれ!そら、行け!押せ!押せ!あなたなら出来る!大丈夫!頑張れ!」というものではなかった。
わたし個人としては自分が書こうとしていたコメントは何の問題もなく、
個人としては自信を持って書き込める内容だった。

しかし、わたしの頭の中には「fiskflickaは後ろ向き」というイメ-ジが知らず知らずの内に住み着いてしまっており、「こんなことを書けば、『ああ、この人は後ろ向きだからこういう感じだよなあ』と思われるだろうな」と自分の意見を書き込むことを躊躇してしまうのだ。
そして、他の人が自分が書き込もうと思っていたことと同じ内容のことを問題なく書き込んでいるのを見て、
少し誰に向いているわけでもない苛立ちを感じるのだ。


皆さんはご存知かもしれないが、「ポジティブ」、「ネガティブ」は気の持ちようだけの問題ではない部分があるのも確かだ。
脳内でのセロトニンの分泌の量に「ポジティブ」、「ネガティブ」は影響されているようだ。
鬱にはセロトニンが関係しているというのは知っていたが、
「ポジティブ」、「ネガティブ」のキャラクタ-もセロトニンで左右されるというのを知って、楽になった。

今まで、「ネガティブ」人間だと自分のことを思って生きてき、
「ポジティブ」であることを崇拝している人たちを見かけると「ネガティブ」な考えに行き着いてしまう自分は努力不足のような、良いとはいえないような生き方をしているような否定されているような気持ちを感じていた。

しかし、落ち込みやすかったり、傷つきやすかったり、
不安・心配が多いのは特定の脳内物質が原因の可能性があり、わたしがダメな人間だからだというわけではないのだと考えると気持ちが軽くなった。
医学・科学的にいわれていることだからというのも何か「確かな情報」だと思えありがたかった。


話は戻るが、わたしは「ネガティブ」ではない。
リアリストではあるかもしれないが、それはそれだ。
「ネガティブ」とは違う。

人が「ネガティブ」な印象を持ちやすいものが好きだというのはあるかもしれない。
例えば葬式。わたしは葬式が好きだ。
しかし、他人が「ネガティブ」だと思おうが、もし、例えば葬式に参列することでわたしが何か「ポジティブ」な感情を抱くのであればそれは「ポジティブ」なことだと思うのだ。

逆に「ポジティブ」だと大多数が思うことでも、わたしに「ネガティブ」な感情を抱かせるものならば、
それはわたしにとっては「ネガティブ」要素なのだ。

やっと、自分が自分自身への間違ったイメ-ジを持ってしまっていたことに気づくことが出来た。

そして、「ポジティブ」であることも「ネガティブ」であることも自分には関係のないことで両者わたしには価値のないものだという結論に達した。
他人がわたしをどちらだと思おうが、それはわたしにとっては何の意味も持たない。
「ポジティブ」、「ネガティブ」と「」を用いて書いてきたが、それはわたしがそれらが実際どういうことなのかというのを明確にわかっていないからだ。

それでは何故自分のことを「ネガティブ」ではないと言い切れるのか?
本当の意味では言い切れない。
しかし、「ネガティブ」=何か否定的なもの、悪いもの、と世間一般のイメ-ジで捉えた場合、
わたしは、「それ」ではないということだけは今回気づいたのだ。


「ポジティブ」も「ネガティブ」もわたしには関係ない。
なんと言われようが自分が信じるように気持ちよく生きていけばいいだけだ。

さようなら、わたしの「ネガティブ」レッテルさん。

あなたたちどちらもわたしにとってはもう何の意味も持ちません。