ものすごい主観で言いたいことをそれでも言う。(すごく若干ネタバレを交えつつカモ)
告白 湊かなえ
章タイトルが浮きすぎている。
頭のよく見えそうな本をまあ多々出しているけれど、目的が正にそれだけのように見えて、ドフトエスキーが解読できるのがそんなに高尚なことなのか? 高尚であったっていい。
山田詠美さんの「ぼくは勉強ができない」って本の主人公、秀美くんだっけな、高尚な悩みは暇な人が考えるだか、腹の足しにはならないだか、もうちょっと可愛く言ってた。
さて、映画化された話題作です。
いじめを批判したければ、徹底的に陰湿に狂乱的にいじめ抜く描写をするのがいい
と、何かの投稿小説の審査員が言っていた。
その言葉を、意識しすぎたけどやりたいことがいっぱいありすぎたような、
でも違うんだよ。この作品は。
結局、勧善懲悪、なんだよ。
自分のせいだけじゃないかもしれない、でも誰かが悪くて、だから罰を受けるのが当然、というのが終始ある。
しかしそれは正義なんかではなく、私怨、私刑、誰かへの復讐で話は繋がっている。
そうか、そこを徹底的に見れば、復讐は復讐を呼ぶしかないということを学べるのか寝物語のように。
ただこの物語中に復讐と共にある甘えは読んでいて、ワキワキするよね
私は正義云々よりも、この多大な自己弁護のヤマこそ、個人が積極的に責任を持って対峙しなきゃならんのではないかと思う。
誰が悪いとか、アレは嘘をついてるだとか、じゃあ正義って何? とか、そんなんはどうでもいい。
誰かの非を挙げ連ねることは誰にでもできるんだよ。やるかやらないかだけで。理由はどうであれ。
でも、あの人ってああいうとこよくないよねって自分の言葉に、じゃあ、どうすればよくなるのか考えない人は、負のエネルギーをただ放っただけで、それこそ悪になるのではないか。
日記に嫌なことを書いて忘れなさい
という言葉は、書くのは冷静に物事を考えられるようになるから、書いたことでこんがらがってるとことか発見できるから。だからたまに記事を書いたら満足してしまってUPするのを止めて削除したりする。
うじうじしてるメールも、書いてるうちに気分が変わったり、いや、こんなただの愚痴をこぼしてどうする、と理性と消化と浄化作用が発動することがあるとは私も思う。
ただその紙は破り捨てるものじゃないのか。
もし嫌なことを考え続けて何かいい案がでてきたのであれば、その工程も含め残しておいたらどこかで何かに繋がるかもしれないけど。
負を溜めていると、日記に収めて大事に閉まってしまったら溜め込むことになってしまうと思う。
日記を、今は書いてないんだけど、来年からまた書こうかなと思ってる。
日記って、ものすごい自分なんだよ。だからこそ無意識の自分の考え方が見える。
日記はあくまでもその人個人のもので、勝手に読むというのは、縁を切られるくらいは軽い罰。
だからこそ、母親の日記の文体が、あきらかに人に読まれることを念頭に書かれているのが、気持ちの悪さを感じた。
ウェルテルはもうちょっと大人になればなと。
わかりやすく、悪い人じゃない、この人は。
ただ自分の理想を相手に押し付けて、自分だけが正しいと思い込む視野の狭さに気づけばいいなと。
少年Aと少年Bは、マザコンですね。
これは、異常じゃないのか?
特異的な少年たちを犯罪者にしてしまう→社会的弱者は犯罪を犯しやすい
ということを訴えていないか?
少年Aが母親に捨てられたこと、新しい家族に疎外されたこと、
少年Bの母親が自分の息子だけは悪いことなんかしないと理想を押し付け、現実を見たときにその全てを否定した。
それは少年たちに罪はない。
なのに彼らはレッテルを貼られる。
そのレッテル=犯罪に近づく
という公式を私たちが先に決めたんだ。
何だか変な読み方をしてしまった……![]()