メモ(2022/04/24 20:15:28)
・推しについて全部知りたいか。について。
・「全部」の定義
当該推しが発した情報そのもの、についてのみ。と定義する。
発した情報の背景など、そこから推量されるものがたとえ当たってたとしても、「全部」には含まれない。
・結論
私の意見としては、知らなくても良い。
と結論づけることとした。
以下にあげる2つの理由による判断である。
・1点目、不可能に近いから。
ツアー全通だけでも難しいのに、そのツアー最中に観測できる全ての事象を認知することが出来るのか?
極端な例を挙げたが、推しの「全て」を把握したい!ということを成し遂げるにはここまでやる必要があるのではないか。
林修先生は、「変えられない値」すなわち定数にリソースを省くよりも「変えることの出来る値」すなわち変数にリソースを省いた方が良いということを仰っていた。
この場合…
定数は「全部」を知ることが不可能という事実と。
変数は「一部」を知った上で、何が推しにできるか、推しは何を考えているか。そういう見えない部分について考える。そういった我々主体の部分だと言えるだろう。
もちろん、様々な考えるには下地の知識の部分は必要不可欠ではある。
知識を入れることを全否定する訳ではなく、限界がある。それを定数であると認識することによって、少しは、気を楽にオタ活というものが行えるのではないだろうか。
・2点目、知ってからについて
では、仮に推しのことを全て知った人がいたとしよう。
その次はどうする?
知的好奇心を満たして終わり?
それではあまりにお粗末ではないだろうか。
もちろん大体の人は、先程申し上げた変数のステージにその段階では行き着いてるので知っただけで終わることはないだろうが…
そこで推量されるものは全て正しいのだろうか。
少し整理する。
推しが発した「全て」の情報から導き出される推量は全て正しいのか。
否。
全て正しいものになるとは限らない。
なぜなら、
推しが発している情報が「本当の全て」では無いから。
ごく当たり前の事を言っているが、結局はそこに行き着く。
私は推しから、人のバックグラウンドの広さについて学んだ。
どの人間にも分厚いストーリーが必ずあってそれによって出来た人間性を持ってみんな生きていて、そのストーリーは、毎時間更新されていること。
そこに対して、外野が「ああではないか?」「ここではないか?」と発すること自体、私はあまりに好ましいものだと思わない。
もちろん推量して、内輪で楽しむ分には十分であるが、それを外野に見られる形で発信することはよろしくないのでは。という話だ。
以上、
完璧に知れたとしても、それを昇華させる方法が限られてるから。という理由だ。
ここまで読んでいただいた方には分かると思うが、私はかなりめんどくさい人間である。
推量するのを失礼だ。と捉えてるタイプの人間だから、適切な距離感も測れない。
恐らく、大多数の人間からはあまり良い顔をされる文章ではなかっただろう。
しかし、「オタ活」が趣味の世界である限り、それは許されるものだ。
趣味は自己満の世界だから。
こういうめんどくさい意見を持ちながらこれからも推しを応援していきたい。