サンティアゴへ そして再びポルトへ | 断片の集積

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主にポルトガルでの生活について

週末の休暇を利用してスペイン・サンティアゴへ小旅行をした。サンティアゴまでの実際の距離は思っていたよりも遠く、マドリッドへ行くのと同じぐらいの距離があった。しかし、シザのガリシア現代美術館もあるし、ポルトガルにいるからこそ行ける場所だろうと、夜行バスに乗った。


10月3日

朝5時にサンティアゴに着く。霧がかかり、想像していた以上に寒い。町の中心部を目指してバスの運転手が教えてくれた方向に歩くが、なんと同じバスステーションの逆側のエントランスにたどり着くというまさかの展開。しかし、歩いたことによりウソみたいにきれいな教会の写真(セピア指定をしたわけではなく、カラーでとってこの色なのだ)を撮ることができ、街が、活動するにしてはまだ恐ろしく寒いことを知ることができた。バスステーションで暖をとり、7時のオープンとともにそこに入っていたカフェでコーヒーとデニッシュを食べる。ほっとする。暖かくてうまい。この時点で空はまだ真っ暗。リスボンの日の出が7時半くらいで、サンティアゴはリスボンとほぼおなじ経度なのに、時差がありスペインのほうがポルトガルより1時間進んでいるから当たり前だ。

8時前にほのかに色づいて来た空を見て町の中心へ向かう。歩いていると、まずガリシア現代美術館にたどり着いた。


ガリシアは図面で見た時のイメージよりも修道院に囲まれてはおらず、道からアクセスすると結構独立しているように感じる。しかし、裏庭に回ったり、エントランスの取り方や建物配置、建物の外側・修道院との間の道に面するスペースなどをじっくり観察すると、周りのとの関係性を充分に、充分に考慮していることがわかる。コンテクストを読むということの意味を教えさせられる。美術館の周りの、簡単な庭園?をひたすら見て、美術館に戻る。オープンしていると思いきや、11時オープンでまだ入れないため、予定を変更して先にカテドラルを見る。3大巡礼地の一つということでずっと旅をしてきたような巡礼者も多いが、やはり観光客が多い。昼になるともっと多くなるからということで先にカテドラルを見ることにしたのだが、その判断は正しかったようだ。装飾が抑えられた三廊式のロマネスクの巨大な内部の正面にヤコブの像がまつられたチュリゲラ様式の光輝く祭壇が待つ。この装飾やデザインはあまり好きではなかった。また、採光口が少ないため、内部空間の感動は薄いかと思っていた。しかし、祭壇の裏、アプスに回り込んでその考えは大きく変わった。アプスがさらに細かく祭壇を持つ部屋に分かれており、それぞれにテイストが異なっているのだが、その中にはいくつか心打たれるものがあった。とくに、右斜め奥側にあった、すべての装飾を石(大理石ではないと思う。種類は分からない)をはめ込んで作った部屋が素晴らしかった。ロース研究と言い、シザの住宅と言い、僕は意外と石を装飾に用いるのが好きなのかもしれない。そんなこと意識したこともなかったけれど。


いくつかのホテルにコンタクトをとり、空いていたところに決め(3件もいっぱいだと断られた!)再びシザの美術館へ。内部は空間のつながりはシンプルだけど、細かい操作が多い。それらの操作は嫌らしかったり、過剰だったりするのではなく、細かいところまで気が効いているなと好印象を受けるものであった。素直に感動できる建築。僕の好きな美術館建築best3に入る。どんな人をも人を引き付ける驚きがあり、細かいところまでとことん考えたのだろうという繊細さがあり、そしてやはり、コンテクストを最大限に尊重し、活かしているということが大きい。作品の展示変更期だったのか、いくつかいけない部屋もあり(というか、建築を大きく3つのブロックに分けるなら、一番大きな一つのブロックにしか入れなかった)、残念な部分もあったが、それを上回る感動があった。そして、なぞも多く、どうやって構造的に持たせているのか、なぜこんなおさまりを選択したのか、道に面している壁の開口の上辺ははどうして斜めなのか(インパクトを与えるためと考えられるが、気づいてしまうと変な違和感というか気持ち悪さが残る)などの疑問点も生まれた。この建築はボリュームの取り方、プランニング、ファサードの見せ方、構造、そしてディーテイルに至るまで学ぶべきところの多い建築であった。


昼食は某有名観光ガイドブックに載っていたお店へ。安く、量が多く、うまい。とても満足できるもの。前菜の選び方(僕らはスープを頼んだ)を間違えればその量は大変なことになっていた(周りの席のいくつかにはそれメインディッシュでしょ?という量の前菜のプレートが次々と運ばれていた)。メインはステーキを頼んだのだが大切れの肉が二枚も。おいしかった。友達が「腹いっぱいでいらない」というので僕は都合2.5枚くらい食べた。まあそれもすごいのだろうけど、魚を頼んでいた隣のおじさんのもとには、小さめのカレイ?をから揚げにしたようなものが4匹とサラダが載ったプレートが運ばれていた。小さめと言っても一匹の大きさは前回僕らが寮で調理して食べたイワシぐらいはあっただろう。一度の食事で魚を4匹も食べることなんて、普通まずないでしょ?びっくり。


その後観光客を避けてぶらぶらとまちはずれへ。丘の上に整備されたヨーロッパ庭園といった趣の広場があり、おじいちゃんや家族連れ、カップルなどが読書したり、話したりしている。とても心地の良い空間。庭園は少し手入れされすぎているように感じたけれど、そういった公共空間の質ってのは、場のきれいさではなく、使われ方・場の雰囲気で決まるのだと改めて確認。その丘からは、谷をはさんで少し小高くなった向こう側にそびえるカテドラルを見ることができた。


さいごに、シザの美術館の隣にある修道院へ。ここはリノベーションされ、民族博物館のようになっていた。展示内容はそういったところにしては面白く、企画展でやっていたアフリカの子供たちや、緑をとった複数の写真家の写真展(これは常設展の内容とは少しも関係がなかった)は惹きつけられるものがあり、飽きさせなかったが、展示空間はただ、展示しているだけで最悪だった。悪い例を見た。人のふり見て我がふり…にしなければ。ただし、質素な修道院の聖堂と、3つの階段が軸をずらし重なりながら回転して登っていく様はよかった。


まだ、そんなに遅い時刻ではなかったので次はどうしようかとふらふらしていると急激な大雨に見舞われる。仕方なくホテルの近くまで走って戻り、近くのバーで一息。雨がやまないまま時間が過ぎていくので、観光は諦め、小ぶりになったのを見て、近くのバールへ走る。そこで、ゆでダコにオリーブオイルと唐辛子をかけたもの(これはサンティアゴの名物らしい。これがとてつもなくうまかった)やムール貝のビネガー漬け、生ハム、オリーブなどをつまみ、白ワインを飲む。軽めだけれど昼が多かったので十分。味も上手くて大満足。ただ、予想以上にこまごました物(パンとか)が高くて、予想以上に金がかかってしまった。けれど、満足できる一日。


夜、テレビでアトレティコマドリードvsサラゴサを見ながら就寝。気づいた時には眠りに落ちていた。どっちが勝ったのかもわからない。


4日

昨日宣言したとおり、眠っている友達を残して、朝の散歩でまだ暗い街へ。昨日の雨により、石畳の道がオレンジの街燈をあやしく照らし、とても美しい。特に尖塔の上部が闇に溶け合ったカテドラルの外観は素晴らしい。街をふらふらしようと思っていたのだが、予定外の大雨にあい、カテドラルの中へ。側廊の小さな部屋で小さなミサが行われていたのと、ひと組の巡礼者カップル、地元のおばあさん以外には僕しかいない。大きな大きな空間がちっぽけな僕を包む。天井が高く、柱にも側廊の壁にも装飾がほとんどなされていないため、より一層、空間が大きく、自分が小さく感じられる。完全に圧倒された。すごい。しばし、圧倒され、陶酔する。

外の様子を眺めに行くと、一向に雨がやむ気配がないので、思い切って外に飛び出す。ガリシア現代美術館目指して一直線に走り、途中で見つけた小さな広場の写真を思わず立ち止まって撮る。これは広場とも言えないくらいの小さな空間で、木が一本生えているだけなのだが、サンティアゴにはこういう場所が多い。狭い小道を抜けた後に、こういう場所がふっと現れると、ほっと一息つけるのだ。ガリシアで雨宿りをしながら、昨日気になっていたいくつかのディーテイルや関係性を改めて確認し、ホテルへ戻る。そのままシャワーを浴びる。そうそう、このホテルはシャワー、トイレが部屋に付いておらず、フロアで共用だったのだけれど、こうやって部屋から離れていると、寝ている友達を音で起こす心配をしなくてよいというメリットもあるんだと知る。雨には降られたけれど、気持ちいい朝の散歩。


友達も起き、チェックアウトしバスターミナルへ。昨日とおなじカフェで昨日とおなじ朝食を食べ(相変わらずここのコーヒーはおいしかったな)、10時発のバスでポルトへ。


ポルトでは再びカサ・ダ・ムジカを見、安くてうまい店でパンをつまみ、念願の対岸へ渡った。対岸からはこれぞポルトという景色が広がっていた。斜面に連なる間口の狭い家々の、鮮やかだったり、くすんでいたり、青だったり黄色だったりという壁面が連なり、美しい景色を作り上げる。一部、完全に同じ形の新しい目の建物が連なる一画があったのだが、ここは全く魅力的でない。この一画が「いくつかの共通項を持った似て非なる建築がいくつも連なって都市の一体を形成するとき、そこには美しい街並みが生まれる」ということを反面教師になって教えていた。ポルトも目的が果たせたので満足だ。ソウト・デ・モウラが作ったメトロの駅も見ることができたし(これは写真で見たほうが美しい)。

夕方6時のバスに乗り、リスボン着。夜10時過ぎにマックを食べて帰宅。


旅をするということはとても素晴らしいことだと友達と話していた。旅をすると、課題を頑張らなくてはというやる気がわいてくるし、刺激をたくさん受けるから、こんな設計をしたいという意欲もわいてくる。これからも可能な限り旅に出よう。小さな旅でかまわないのだ。


そういえば、帰りのバスの中で、プロセスのことをまた考えていた。ポルトを対岸から見たときに「こちら側のほうが平地な部分が多いのに、なぜあちら側に街が発展したのだろうか」と友達が言ったからである。都市を見ると、なぜこんな街ができたのだろうかと街の歴史にごく自然なこととして考えをめぐらす。仮に街が立体交差していたら、どういう順番でその形が形成されたのかと無意識のうちに考える。ただ、「面白いね」とは絶対にならない。では、建築を見るときはどうなのだろうか。建築を見るときに、そういうことを考えることは少ないように思う。どういう理由でそのデザインが決まったのか、どういう順番でプランニングがなされたのかと言うこちに関して思索することである。もちろん、なんでこんなおさまりにしたの?とか、この空間のつながりはどうなのとはよく考えるけれど、ここで言いたいのはそのもっと前の段階の話、プランニングの話である。今回のガリシアの美術館を見たときに、修道院との関係性により導かれたプランニングと言うか、そこにおけるシザの思索が何となくわかったような気がしたのだ。非常に修道院に対して敬意を払っているということが。建築が都市を変えることも無い訳ではない。しかし、通常、ほとんどの建築は都市の中の一部としてふるまう。その時に、都市との関係性というか、プランニングにおけるプロセス、都市との関係性、コンテクストの読み込み方が何となでもく示唆されるべきではないか。もしかしたらよい建築というのは、それがさりげなく示されているもの、都市のコンテクストをどう読み、それをどのような形に落とし込み、どんなプランを与え、その結果として空間はどうなったのか、ということがある意味素直すぎるほどであっても、ちゃんと示されている建築が良い建築なのではないか、と考えていた。たとえば美術にキャプションや説明はいらないと僕は思っている。それを読むためだけに美術館に来ている人(それを読めば満足で絵なんてロクに見ていない)が多すぎる日本の美術展に本当に飽き飽きする。しかし、どんなおかしな現代アートでも、キャプションなんて読まなくても、たまに「わかる」作品がある。そういうものが必要なんじゃないかって思う。

つまり、「こういうことを考えてこうやって、こんな事をしてみて、こうやったら、こうなった」みたいなことを長々と説明するんじゃなくて、本当に素直にコンテクストを読んで、そこに本当に素直にいい空間を当てはめていったら、こういう建築になった」ということが、建物を見ただけで何となく伝わるような。そういう意味で、建築がプロセスを内包していることが重要なんだと思う。建築という作品に、長ったらしい説明なんていらない。昔から僕は主張しているけれど、言葉が建築の装飾になる、それも美しくない装飾になるなんてごめんだ。もちろんそれはメディアの影響もあると思うけれど。そんなことをずっと考えていたら、あまり眠れず、大きな黄金に輝く満月と対向車線の大規模な事故を見ることができた。事故を見るのはけっしてうれしいことではないが。


それにしてもバスは疲れる。足が狭いよ。でも、何といっても安くて、気軽(気分次第でその場で旅立てる!)なのがとても良い。これからも、何度もバスで旅するんだろうな。


写真はまた明日にでも。今日はとりあえず、忘れないうちに旅の記憶を残しておく。