潔癖症ではないけれど(その2) | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
一日に数本書いていますので、遡って読んで下さいね。

・・・・・・っということで、病院待合室でヒマなので時間つぶしです。

フィットネスクラブの浴室でのマナーの悪さはドーしたことでしょう?

それはネ、銭湯が日本から消えてることと大きく関係しているのではないでしょうか?

かけ湯も上がり湯もしないということは、そもそも知らないんじゃないか?・・・・・・っという疑問。

そこで調べてみると、3年前のデータでは全国に銭湯の数は約4300軒。

50年前の1/4です。

ぼくらの世代、親に連れられて銭湯に通った思い出をほとんどの人が持っているでしょ?

今の人達が公衆浴場でのマナーを知らなくて不思議じゃないかも。

(知らないとしても、正常な精神を持っていたら悟るはずだとの思いは、ここでは封印しておきます。)

銭湯の代わりに自宅で入浴出来るのは喜ばしいことだ。

国民は清潔且つ健康に生活出来るようになったのだ。

銭湯にはノスタルジーを感じるけれど、数が減るのは時代の流れだから仕方ない。

・・・・・・でしょうか?

失ったものは大きくはないんでしょうか?

ぼくはスッゴく大きなものを失ったと感じているのです。

それはコミュニティーを形成する「場」を失ったと思うからです。

銭湯が持つ機能は身体を洗うだけではないのです。

地域の住民が集う、交流の場を提供する重要な機能を担っているのです。

銭湯に行けば学校のクラスメートに必ず出くわしたものです。

大人達はまさしく裸の付き合いが出来るのです。

子供達は、そこで大人の社会を垣間見ることが出来るのです。

倶利伽羅紋紋を彫った怖いお兄ちゃんもいます。

騒いでいると爺ッチャマから叱られます。

社会を学べる点では砂場より遥かに多いのです。

家族一緒で出かける行事も失われたのです。

銭湯を失うことによって、日本人は大切な「場」を失ってしまったのです。

これに代わる新しい「場」を日本人は持てていません。

・・・・・・

自転車の荷台でオヤジの腰に掴まって通った銭湯。

帰りにトコロテンを食べ鼻がツンとした思い出の銭湯。

もう永遠に帰っては来ないのです。