オリンピックを見ていると、学生時代を思い出します。

私が通っていた中学校は体育系の部活が盛んで、競技によってはいわゆる強豪校として有名でした。

日々過酷な練習でした。
当時は練習中には一切水が飲めなかったし、上下関係も厳しかったし、レギュラーの座を半端ない人数で争っていたな。

部によっては男女交際禁止とか、試合で負けると顧問の先生に丸坊主にされるとか、1人ずつ引っ叩かれるとか、今じゃあり得ないんじゃないかな。


日曜日も夏休みもないほどで、今思えばあの時代ほど運動して汗をかいたことはないと思う。
そして、よく3年間頑張ったなと思う。あの過酷さを経験したからこそ踏ん張れたことがたくさんあります。
あの練習を耐え抜いたのだからイケる!ってね。

私はバドミントン部だったので、オリンピック競技ではバドミントンの試合に最も関心がありテレビに張り付いて応援してました。

あー、バドミントンしたい!

無我夢中になってさ、パーン!とシャトルを打ちたい。




画面から伝わるアスリートの並々ならぬ努力と思い、その姿に感動の毎日です。


今の私はあのときみたいに一生懸命に汗をかいて生きてるだろうか?→NO
泥臭く一球を追うたくましさはあるか?→NO
目標はあるか?→NO



今は走れない。
今は目標とか希望とか、キラキラしたものから目を背けたい。

ずっとずっとずっと走り続けてきたから、もっとゆっくり自分の周りの景色を見たい。確かめたい。感じたい。
自分を追い詰めて壊れちゃったから、完璧に生きよう、周りが望む私になろうと苦しんでいた自分じゃなくて、もっと違う自分を自分の奥底から引っ張り出してみたい。

出来ることをやる。
出来ないことを出来るって言わない。

誰かのために心を削らない。
それは人を遠ざけることではなく、愛情に無関心になることでもなくて。

自己満足で人を幸せになんかできない。
自己満足が自分を幸せにしてるだけ。

あなたのためを思って、と思って奔走すればするほど相手のためにはなってなかった気がするから。


自分が意志を持って決めたことに命を費やして生きたい。

今、自分の魂がどこにあるのかさえ分からない。
今更ながら思い知った。

私は誰
私はどこ

何もしたくないって思うのは、何かしなきゃいけないことがあるから。

それって逃げてるの?
そもそもそれってしなきゃいけないこと?


一流の人たちから、一流の意味を問われているような気がする。

別に一流の〇〇になりたいとかじゃなくて、自分なりに、自分流の生き方が出来たら苦難や困難があっても軸がブレないんじゃなかろうかとぼんやりと思うわけで。

どんなふうに生きたいのか
どうしたいのか
どうなりたいのか

そこにはいつも他人からの評価を気にしていた自分がいる。

違う

誰かのためじゃない
評価されるために生きてるんじゃない

私は私として生きたいだけなの



私は誰
私はどこ


そんな日々