思い出は出戻り、繰り返す。

これは最近自分の中で痛感していることの一つだ。

昔好きだったものが一度嫌いや無関心になって、また好きになる。数年単位という貴重な時間のスパンで自分の好きなもの、やりたいこと、なりたい姿、理想、これらが巡り巡る節が存在する。

これは私だけのことなのかもしれないし、もしかしたら他の人もそうなのかもしれない。

 

 

今でこそアニメであったりゲームであったり、所謂オタク文化(ここではあえて一括りにする)に沢山触れて、自分の中で落とし込み、それを好きになることができた。しかし、高校生までの自分はどうだったかというと、そういったものを嫌っていたし、自分は特別な人間、すごい人間、尊敬される人間になりたいと思っていた。ここは自分の根底であり、本質なのかもしれないが、また別の機会に。

では中学の時の自分はどうだっただろうか。それは熱心なオタクで、インターネットを自由に使える家庭ではなかったこともあるが、TVで深夜のアニメを録画して、親に隠れてこっそりとアニメを見る。最新話の内容を持ち込んでオタク話に花を咲かせるような中学生だった。つまりは大学生の自分は中学生の自分に逆向しているといっても過言ではない。

これは趣味に限った話ではなくて、様々な面で自分の好きなこと、理想は循環してきていると痛感することが多くなった。そして同時にこれはなぜなのかということを考えるようになった。

 

 

これを論じるには自分の本質や根底について深く考える必要がある。

第一に私は承認欲求の強く、自己肯定感の低い人間であることを認めざる負えないと思う。

全ての世代の自分に共通しており、そして全ての理想像において自分が考えていたことが本質であり、その本質は「誰かに認められる存在になりたい」「誰かに【凄い】と思ってもらえるような人間でありたい」ということだった。そのために自分のできることを一生懸命やってきたし、自分を磨いてきた。でも世の中には上には上がいて、だからその頑張りが認めてもらえるような少しレベルの低い場所に身を置いて、自分の安寧を維持しようとした。これは自分の本質に間違いない。

 

 

例えば中学時代の自分は周りと比べて文の才があると感じていた。ここではあえて「感じていた」とさせてほしい。勘違いなので。だからこそ運動ができるような学生とは仲良くしなかったし、根暗な陰キャコミュニティの中で自分の存在が主張できるようにした。その中でも人と違うことを誇示したくて人より多くの本を読んで、沢山の文章を書いて、詩なんか書いちゃったりして、なにかを生み出すことで認められようと必死になった。

 

例えば高校生の自分なら、文の才能を認められないことを理解したので、友達との関わりの中で自分の存在証明を見出そうとした。実際友達と所謂ドラマのような「青春」を送るために、中学時代に培った様々なものを捨ててきた。詩を書くことは痛々しくて恥ずかしいことだと思うようになったし、アニメを見ることはオタクっぽくてかっこ悪い、気持ちの悪いと感じるようになってきた。まともな人間関係を構築してこなかった人間なので、失敗もしながらとにかく我武者羅に毎日誰かと会って、おしゃれな服を着ようとして、学校内外関わらず色んなコミュニティに参加して、世間からみた「まともな人間」になろうとした。実際それで成功もあったし、その中でなんとか仲間を作ることもできた。でも結局そこでも自分は「それなりの人間」にしかなれなかった。

 

例えば大学生の自分。私は大学生になったと同時にコロナ全盛期を迎えた。これはきっと誰しもが同じことなのだが、そこで孤独を初めて感じるようになった。まして環境が変わるその瞬間に無理やり人から引き離されるイベントが発生して、私たちの世代はある意味他の世代と比べても孤独を感じた世代と言えるかもしれない。(ここに関しては完全な主観が入っている)

そんな時今までは手に入らなかったインターネットという物が身近に現れて、自分は使うしかないと思った。この孤独を埋め合わせるためにはこれしかないと思った。

だけどそんな時に気付いたのは「自分にはなにもない」ということだった。

 

インターネットにはコミュニティが存在する。音楽が好きな人のコミュニティ、アニメが好きな人のコミュニティ、ポケモンが好きな人のコミュニティ。自分がいざ誰かと関係を結ぼうとするときに、自分はいったいどんな人間と関係を結べばいいかわからなくなった。これは今の今までずっと考えていること。

なにもかもが中途半端に進めて、それを崇められる環境に身を置いたせいで、結局何ものこらない人間が生まれたという感じである。

 

私はそれとなく人間と関わることが得意だ。きっとその理由はそこにあって、平たく言えばすべてが「広く浅い」人間なのだと思う。それだけに本当にそれが好きな人間と深い関係性を持つことはできないし、なにより自分が心から熱狂して、楽しくて、自分のためにすることができることがない。

自分が認められたい、すごい人間だと思ってもらいたいと考え、培ったものを簡単に捨てるような22年間を過ごしてきた結果、得たものが何も残らなかった浅い人間という事実。

 

 

だからきっとこれからの自分を変えていこう。ということはおそらくできない。

自分は凡才だとわかっていても天才に勝ちたい、認められたいと願うし、実際には勝てない。

でもいつかそんな自分が認められる土俵が表れるのではないかと願いながら、これからも渡り歩いていくのだと思う。