【「自己責任論争」から感じたこと】 | Live with Max.

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世の中のあらゆることは、人間関係に行きつく。
そんな視点でいろんなことを考えながら書いています。

安田純平さん解放。

いろんな意見が飛び交っていますが、あなたはどう思ったでしょうか?

 

こんなことを言ったら批判をされるかもしれませんが、正直にいうと、

 

「地獄だった。」

「自分をコントロールできなくなっていた。」

「身動き1つしてはいけなかったことが8ヶ月続いた」

「殴る蹴るの暴行を受けた。」

 

とか、とにかく酷い環境だったことを強調しているわりには、目つきも、表情も、口調もしっかりしている。足取りもしっかりしている。

 

本当に、そこまで酷い環境で弱っていたのだろうか?

申し訳ないけど、それが第一印象だった。

 

そして、それほど過酷だった3年4ヶ月の監禁生活の中、日記を書く自由は与えられていた。

カメラなどの所持品はすべて奪われたと言っていたが、その日記は持ち出すことを許された。

しかもそれが帰国と同時にメディアでも公開される。

 

これは少々謎解きをしなくてはいけないのでは。

 

なんだか複雑な裏事情があるような。そんなふうに見えてしまった。

 

 

とはいえ、一人の命が助かったことは非常に嬉しいことだし、何よりもご家族にとっては本当に良かったことだと思います。

 

その一方で、身代金を払わないスタンスの日本政府に代わり、カタール政府が3億4千万円の身代金を支払ったとするような情報も出回ったりしている。

一人の日本人を助けることが、より多くの犠牲を生むことにもつながったことが大きな問題だと。

 

その真偽はわかりませんよ。僕はそこに話をもっていきたいわけじゃない。

 

この騒動で持ち上がった「自己責任」というキーワード。

これについて、深く考えさせれた。

 

日本政府がダメというのを無視してとった行動。

その結果に対し批判が集まるのは当然。自己責任などといっても、責任をとる能力はないのだから。

 

しかし、もし自分の暮らしている場所が酷い目にあっているとしたら、そのことを世界に知ってもらいたいと思うのも当然。安田さんのようなジャーナリストに感謝するだろう。

 

どちらも理解できる。

 

 

だけど、このことが論争を巻き起こしているポイントは実はまったく違うところにあるように感じた。

 

社会的意義、自己責任、社会的使命、などといった筋が通っていることを強調するような言葉が

 

『自分の意見や考えの正しさを主張し、相手を批判することだけに向いている』

 

ということ。

 

そうなると、反対意見側にいる人に対して、ストレスや圧迫感を与える。

お互いに相手の意見を理解できなくなり、「意見がぶつかりあっている」だけで終わるんですよね。

 

社会的意義、責任、使命という言葉の裏には、

 

・高い志を持ち続けること

・挑戦し続けること

・誇りを持ち続けること

 

というものがあると僕は思う。

 

自分の主張の正しさや、相手の主張の批判の前に、そういったことに目を向けて論じていかないと、問題をどう克服したり解決するか?という建設的な意見がせっかくでてきたとしても、そこへの注目が薄れてしまうんですよね。

 

こういうことは社会的、政治的な話だけでなく、私たちが常に接していることなんじゃないかな。すごく身近で。

 

僕もそれを忘れて、表面的な言動をしていたようなことが最近なかっただろうか。そんなことを気づけるようにしていきたい。

 

ネット上でぶつかり合う様々な意見を読みながら、そんなことを思った。