フィリッポ・ブルネレスキ設計の旧聖具室は、

メディチ家のお墓がやはりあります。

 

ジョヴァンニ・ディ・ビッチがブルネレスキに依頼し、

1429年に完成しました。


白い漆喰の壁面とピエトラ・セレーナと呼ばれる

灰色の石でつくられた洗練された柱が印象的です。

典型的なブルネレスキの装飾です。

 

 

真ん中の大理石のテーブル下には、この旧聖具室の

依頼主のジョバンニと妻のピッカルダ・ブエーリが

埋葬されています。

 

そして、メディチ家の通風病みのビエロと

弟のジョバンニの棺もあります。





この痛風病みのピエロと弟のお墓は、レオナルド・

ダ・ヴィンチの先生のアンドレア・ヴェロッキオの

制作です。そして、このデザインを弟子だった

レオナルドがまねて書見台のデザインとして

受胎告知の絵の中に書いています。

 右下のマリア様足下の書見台です。


メディチ家は同じ名前の人がいっぱいです。

コジモ、フェルディナンド、ジョヴァンニ。。。

これは、家族で名前を受け継ぐ習慣があり、

親子で同じ名前は混乱を招くので、祖父の名前を

孫が引き継ぐことが多いです。

 

未だ特に南イタリアではこのような習慣があります。

 

 

天井のクーポラ部分は、ブルネレスキならではの

デザイン。

 

フィレンツェの大聖堂のクーポラと同じ時期に

制作しています。大聖堂のクーポラもローマに

現在でもある古代建築のパンテオンの屋根から

ヒントを得ています。

こちらもまさにパンテオンの屋根そっくりです。

 

そして、この半円形の屋根内部の装飾は、

天空が書かれています。



 

この旧聖具室と全く同じような空間が存在します。

フィレンツェのサンタ・クローチェ教会の

パッツィ家の礼拝堂です。

 

こちらもやはり、ブルネレスキの設計です。

サン・ロレンツォ教会の旧聖具室が完成した

後の1429年以降に着手されています。

天空が書かれたのは1455年頃です。

 

この二つの天空は全く同じ日である1442年の

7月4日の夜空だと修復でわかっています。

 

この日は、ナポリの王位を追われ、フランスに

戻る途中のアンジュー公のルネ・アンジューが

フィレンツェに訪問をした日なのです。

 

 

メディチ家は、


王家のルネ・アンジューとメディチ家は、同等である

ということをアピールしたのです。

 

パッツィ家は、

ルネ・アンジューと親しい関係にありました。

メディチ家とは敵の関係でした。

 

メディチ家がサン・ロレンツォ教会の旧聖具室に

描いたのを、取り戻すかのように

自分達の家族こそが、この1442年の7月4日の

天空を描かせる資格があると思ったのでしょう。

 

 

敵対関係にあった二つの家族が同じ時の建築家

ブルネレスキに設計を依頼し、しかも同じ日の

天空を同じ人に描かせたのです。

 

その後、

1478年には、パッツィ家の陰謀が起きました。

復活祭のミサの際にメディチ家の暗殺を企てました。




フィレンツェのサンタ・クローチェ教会
パッツィ家礼拝堂内

 

この二つの天空の絵は、同じ画家のペゼッロが

天文学者のトスカネッリのアドヴァイスを得て

書いています。トスカネッリとブルネレスキは

友達でした。
 

 

何で教会の中に天空が書かれるのでしょう?

カトリック教会では年により異なった日が

祭日となる復活祭などがありました。

宗教的な暦を創る上でも、きちんとした

時間の流れを把握する必要があったのです。

 

各時代て天文学的研究が行われ、日時計や

機会時計も改良されていたのです。