あじゃぱー。
とでも言うべきだろうか。
本来あるはずのない言葉である武蔵浦和という駅名の札を目にした僕は。
今にして思えば、これまでの人生は数々のあじゃぱー的帰結のもとに成り立っている。
あじゃぱー。
このときは当たり前のこと過ぎて特段考察することは無かったけど、今こうして全国を再度目指す僕にとってこの言葉はやはりどうでも良かった。
ただひとつ言えるのは、勝つことと負けることは違うということだ。
西国分寺駅と東京駅がまったく別の場所であるように。
言うなれば反対方向の列車に乗っていたというわけだが、僕にとってそれはとても単純なことである反面、ぱっと見で生卵とゆで卵の区別がつかないことくらい複雑なことでもあった。
相対主義の犠牲者であり、鶏の尊厳は永遠に失われている。
吉祥寺に向かうのに逆方向の電車に乗ってから向かうのが僕のやり方ではある。
他人から見れば無駄とも思えるこの行動も僕にとっては造作のないことだった。
裏の裏は表だし、西に行くことは東に行くことと同義でもある。
それぞれ名前も概念も違う言葉を使っているけれど、無価値で無意味なモノにもやたらと意義を後付けする。
ある種の偽善的行為ともとれる反面、自由意志による弊害でもある。
社会とは、そして人間とはそんなものだ。
武蔵浦和で折り返すことを経て吉祥寺に着いてからファミリーマートで水を買った。
水が好きだからなのか、水を飲まないと死ぬからなのか、死んでも尚水を欲しがるのかは僕にはわからない。
ただひとついえるのは、スポドリの粉を溶かす媒体としての水が必要だということだった。
それ以上でもそれ以下でもない。
勝つことと負けることもそう。
練習を始める前の準備体操について僕は入念に行う方ではあると思う。
平日の夜ということもあり、それまでリモートワークで一歩も外に出ることもなく1日中椅子に座りっぱなしな訳で、足腰は固まっている状態のままである。
片足ジャンプやサイドスクワット、プランク、背筋は当然のようにこなす。
でなければ怪我することが目に見えているからだ。
ウォーミングアップで適度な負荷をかけ筋肉や神経に生き物としての防衛本能を認識させる。
骨も筋肉も神経も、そして時間をかけて減りつつあるこの髪に対しても。
いつか死ぬとわかっていながら、その時はただ目の前のボールを相手のコートに返すことに集中する。
誰かが作ったラケットを握り、誰かが作った台を介して、誰かが作ったボールを打ち返す。
僕はこれらを作った人の顔も名前も知らないが、まるで自分の身体の一部かのように自分のモノだと認識している。
ただ、自分の肉体すら正確にコントロール出来ないのに神経の通っていないラケットなどコントロールしきれるはずもない。
彼は断崖の向こう側にいて、こちらの声が届くことはない。
練習帰りにはいつものラーメン屋に寄る。
普段の生活においてラーメンというものを殆ど食べない僕にとっては貴重な機会である。
ただそのラーメンは残酷にも完璧過ぎた。
これまで食べていたラーメンは一体何だったんだろう。
そして今後の人生においてこれを超えるラーメンに出会うことはあるのだろうかと不安に駆られてしまうのだ。
不意にゴールテープを切ってしまったような、あるいは初めて使うラバーがディグニクスだったら、というような。
洞くつ家というその店は、まさに僕のラーメン人生の行き止まりかもしれない。
卓上には刻みニンニク、おろし生姜、すりごま、豆板醤があり、全てがそこで完結する。
同じ卓で同じラーメンを頼んだとしても、最後のひと口は全員異なるものを食べている。
それぞれが思う道を歩み、それぞれの最期を遂げるように、この一杯のラーメンはそれぞれが最高の形で完結する。
そのままのものもあれば、全てを投入するものもある。
ただ全てが絶妙なバランスの上で成り立つ。
それも完璧なかたちで。
あるいは小ライスも追加して。
僕らが食べ終わったとき、そこにはもう勝者も敗者もない。
あるのは空っぽになった器と、お腹いっぱいになって家族の元へ帰るだけの僕らだけだ。
-終わり-