マスターの淹れたコーヒーは苦かった。
いつもインスタントコーヒーにクリープと砂糖をぶち込んで飲んでいるんだから当たり前だろう。ちょっと熱めでかなり苦いコーヒー。懐かしい香りも思いも吹き飛んでしまった。
ここでうまいコーヒーなんかが出てきたら完全に常連だったかな。僕は軽く苦笑した。傘がひっくり返った時から今日は何をやっても駄目だと思っていたけど、まだ下があったらしい。苦いコーヒーを飲みながらそんなくだらない事を考えていた。

マスターはコーヒーをいれるとまたグラスを磨きだしていた。よくみれば太った体がカウンターと壁ギリギリになんとかおさまっていて、窮屈そうに屈みながらグラスを磨いている。どことなく滑稽な姿に思わず笑みがもれた。マスターにじろりと睨まれる。なんとなくその所作がおもしろく、耐えきれなくなった僕は笑いをこらえきれなかった。ひどい話だとは思うが、ちょっと憮然としたマスターがらしくない感じに見えた。

気がつくと店内に軽快なジャズがかかっていた。いつの間にか鳴らしたらしい。いや初めから鳴っていたのかもしれない。自分がどれほど余裕を無くしていたのかがよくわかってきた。同時に自分の中の何かのスイッチが入る音がした。マスターに勘定をお願いし、だいぶぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して、勘定を済ました。

いい店だと思う。そう思いながら、ドアの前まで行った時、背中をバンっと叩かれた。振り返るとマスターだ。痛い。元気づけてくれようとしたらしい。ちょっと小憎たらしい顔をしている。まったくしょうがないオヤジだと思いながらも手を振ってドアを開けた。

「ごちそうさま。」

自然と言葉がでた。返事は期待してない。
「元気でな。」

マスターの声は低くて気持ちよい、いい声だった。思わず振り返った目の前でドアが閉まった。開けてみたい衝動にかられたが、やめた。ここでドアを開けると、何かの魔法が切れる気がした。