河内のバス会社のイメージのある近鉄バスが、なぜ茨木と摂津に路線網を有するのか?

端的に言うと、近鉄が茨木のバス会社を吸収合併したということです。

そのバス会社の名は、茨木バス株式会社 。
合併時は、茨木・摂津・吹田に路線31系統と貸切バス事業を営んでいました。

以下は、茨木市史、摂津市史、近畿日本鉄道関連の史書、森田氏のサイト等から得られた記録を基に記します。

大正15年に高田政治郎により「茨木自動車」が創業。
国鉄茨木駅から高橋、枝切街道を経て水尾・真砂、そして島へと結ぶ路線を開業しました。その後、この路線は鳥飼五久まで延伸。

阪急バス茨木営業所の前身で茨木北部に路線をもつ茨木妙見自動車がバスの塗装から通称「青バス」と呼ばれていたのに対し、茨木バスは「銀バス」として当時の茨木や鳥飼の人達に親しまれていました。

国鉄茨木駅から鳥飼八町を経て鳥飼五久を結ぶ路線は、
朝7時から夜7時まで40分間隔で運行していたようです。

近鉄バス鳥飼営業所で最も歴史のある路線は20番「八防線」といえるでしょう。
いや、阪急茨木~鳥飼五久~阪急茨木の五久循環バスである18番こそが原点といえましょう。

当時、鳥飼村はメリヤス工場が盛業しており、人口も多かったようです。
そして、日本でも有数の大企業で、鳥飼に大工場を有する
鐘淵紡績株式会社が鳥飼工場の従業員運搬用バスとして昭和17年に茨木自動車を買収。
茨木バスはカネボウの子会社!となったのでした。

戦後、国鉄茨木駅、国鉄千里丘駅をメインに路線を拡充。
31系統を網羅する路線を有し、貸切バスも営業する近鉄の傍系会社に成長したが、
施設の共同使用や管理費の削減等の抜本的なリストラを実行するため、
昭和40年7月1日をもって近鉄が茨木バスの路線バス事業を譲り受けた。

茨木バス従業員はいったん退職の上、希望者が近鉄に新規採用される形で49名が近鉄の組合員に集団加入。

茨木バスは近畿日本鉄道自動車局の茨田自動車区茨木営業所としてスタートした。
その後、昭和43年に摂津市東別府の広大な敷地に近鉄バスの鳥飼営業所と、
当時としては最新かつ大規模な整備工場を設置。
「図らずも」昭和45年に沿線で日本万国博が開催され、同路線はその観客輸送に大きな役割を果たしたのであった。


近鉄バス八防線の停留所「鐘化前」は、もともとはルーツの一端であるのです。
ちなみに現在、カネカの関係者と思しき人たちは、停留所「鳥飼西五丁目」から乗るようですが、カネカの従業員バスはJR千里丘と阪急摂津市駅、モノレール南摂津駅からカネカ鳥飼工場間で運行されています。

その運行バス会社は現在、近鉄バス鳥飼営業所の近所で、同じく摂津市東別府に営業所を置く、小型中型バス専門の貸切バス会社で、葬式バスでも有名な


なぜ茨木バスが阪急や京阪でなく近鉄に吸収されたのかという疑問については、
茨木バスが近鉄の傍系であったからというのが答えであるが、
では、なぜ鐘紡の子会社であった茨木バスが、
どういった経緯で近鉄の関連会社になったのか?ということです。
この点がまだ調査しきれていないところです。
判明したらアップしますが、もしお分かりの方がいらっしゃいましたら教えていただけると幸甚です。