ネタ少年 | ほたるいかの書きつけ

ネタ少年

 狼少年は、「狼が出た~!」と嘘をつきます。その度に大人たちは棒を持って駆け付け、マジメに狼をやっつけようとしました。しかし、やがて嘘を繰り返す少年の言うことを信用しなくなりました。本当に狼が出たとき、少年は「狼が出た~!」と言ったのですが、大人たちは「また嘘だろう」と信用せず、駆け付けることをしませんでした。そして、その村の羊は狼に食べられてしまいました(あるいは少年が狼に食べられてしまいました)。

 …この大人たちの対応は間違っていたでしょうか?間違っていたのは誰でしょうか?


 ネタ少年は、「それは疑似科学じゃなくてカルトだ!」と叫びました。大人たちはマジメに「それはどういう意味ですか?」と議論しようとしました。しかし、ネタ少年は議論のための議論を繰り返し、大人たちの言うことをはなから理解しようとしませんでした。大人たちはそれでもマジメにネタ少年と対話しようとし、何を主張したいのか、大人たちのどこが間違っているのかを聞き出そうとしました。大人たちの多くは、自分たちが青かったころと重ね合わせ、若かりし頃の自分を説得するかのように、恥ずかしさで胸をいっぱいにしながら対応していたかもしれません。
 ところが、ネタ少年は、「ただのネタになにマジになってんの?」と言い出しました。これには大人たちは呆れてしまいました。大人たちは、ネタ少年の発言を、「どうせネタでしょ」とマジメに取り合わなくなりました。
 ネタ少年は、その後も時々「これは本当」と言いながら、自分の主張を書き連ねました。でも、大人たちは「どうせネタだろ」と思い、マジメに取り合わなくなりました。そして口々に「困った少年だねえ」と言うようになりました。バカにする大人も出始めました。

 …この大人たちの対応は間違っているでしょうか?それとも、それでもネタ少年の言うことに耳を傾けるべきでしょうか?大人たちはそれぞれ自分の生活も抱えており、限られた時間を自分の思うところに従ってニセ科学批判にあてているのですが…。

※この物語はフィクションです。

参考:
「詭弁者」 (Interdiciplinary)
『水からの伝言』は科学を自称していないから疑似科学ではない? 」(NATROMの日記)
誠実さで判断する/されることのコスト? 」(田部勝也さん)
求められているのは当たり前の誠実さではないだろうか 」(Skepticism is beautiful)
議論における誠実さの判断は当事者間だけで行われるものではない 」(A_lie_sunの日記)