認識と信頼の階層性(追記あり、追々記あり)
(一番下に追記があります)
(もういっちょ追記)
まとまっていないのでメモということで。
ここのところのネット上及びリアルでの議論で漠然と考えていることです。漠然と考えていても始まらないので、少し文章化。相対主義、構成主義とも関係。
ニセ科学批判を批判する人々を見ていて思ったのは(彼らだけではなく、反科学的なことを言う人々もですが)、認識の相対性にも階層性があるということを見落としているのではないか、ということ。
ざっと考えて、少なくとも以下の階層は区別して論じられなければならない。
1. ある問題について調べている研究者集団の認識
2. その研究者集団をとりまく研究者たちの認識
3. その研究者を含む分野の認識
4. その研究を伝える人々の認識
5. その研究についての社会一般における認識
具体例で言うと、
1. 素粒子実験(超対称性粒子はあるか、とか)
2. 素粒子物理の中でその実験に関連した研究をしている人々(超対称性粒子に関する理論・実験に従事する人々)
3. 素粒子物理の論文が主に掲載されるジャーナルがカバーする分野
4. 教育者やジャーナリスト、あるいは研究としては分野外だけれども、大学教育で教える研究者とか
5. 普通の人々(まったく分野外の研究者も含めて)
5a. 興味があって自分で色々調べる人
5b. 新聞や雑誌などで聞きかじり、雑談とかで話題にする人
5c. 興味もなにもない人
という感じ。
finalvent 氏みたいな人が「信」というのは 5 の階層、もっと言えば 5b, 5c の話で、そりゃまあそういう人々は自分で調べるわけじゃないから科学者集団への「信」がまるで信仰のように見えるということはあるでしょう。社会における科学の受容、みたいな話にもつながるわけで、それはそれで社会学的にも重要だろう。
一方、「だから認識とは相対的なもので、絶対的に正しいなんてない」というのは 5 のレベルでの話を 1 にまで適用する間違い。 1→2→3→…と来るにしたがってフィルターがかかり、ほとんど間違いは淘汰されていくので、状況は全然違う。もちろん、実験結果の解釈における理論負荷性の問題とか色々あるけれども、それも研究者の認識のダイナミズムを忘れた静的な理解の上に成り立つ産物であって、個々の場面での理論負荷性が研究全体を貫くわけではない(相互批判も活発だしね)。
さらに関連して、ニセ科学批判への批判でも、多くの場合これらの混同が見られる。「水が言葉を理解することがわかる日が来るかもしれない」なんてのが典型的で、それは 5 の階層ではなぜ水が言葉を理解しないかということが深いところでわかっているわけではないことによる。いやもちろん常識でわかることなんだけれども、その常識を一旦疑いだすと、それをどう否定したらいいかわからない、という人が結構多いといのが本当のところではないだろうか。
ついでに言えば中谷宇吉郎の仕事を仮に知っていたとしても、それこそ江本勝本人のように、尊重していると言いながら平気でそれを否定するような行動を取る場合がある。つまり、中谷の仕事に関する知識と「水の結晶」に関する知識がリンクしていない。まさに、科学的認識において最も重要な「総合」のプロセスが働いていない。
そして、1 のレベルで、仮説の提示やそれを潰す実験などが繰り返し行われ、あたかも科学的知識などはコロコロ変わる不安定なものだのような中途半端な知識があると、既に確立した話であっても同様なものと見做す。それはニセ科学批判に対し、「絶対なんてないんだから」とか「グレーゾーンはあるんだから」などと言って批判する態度に表れる。多くのニセ科学批判が科学的に確立した知識に基づき「ほぼ真っ黒」なのに白と言いはったり、「まだグレー」なのに白と言いはったりしている状況を見ない。知らないんだったらしょうがないけど、でも具体例として血液型性格判断への批判やマイナスイオンへの批判を耳にしていても、そういうものを批判する「ニセ科学批判」というものがグレーな部分への批判まで含むと思い込んで、ニセ科学批判への批判をするという場面はまま見受けられる(私は最近リアルで遭遇した)。
ええと分類だけして 2,3,4 の話はすっとばして、^^;;
認識の話に移ると、我々は誰しも自然を「ありのままに」認識するなんてことはできやしない。自然を要素に分解し、 個々のパーツを理解し、さらにそれを総合、つまり再構成することによって自然を認識していく。その意味で構成的な理解をする。もちろんどのように要素に還元するかはアプリオリに決まっているものではないし、また教育においてであればなんらかの法則として確立した方法で要素に還元していくわけで、その意味で理論負荷性というか人類が構築した法則に従って自然を認識しているということは言える。
しかしもちろんだからと言って自然そのものが極端な相対主義が唱えるようなものであるということには全くならない。厳然と人類の意識の外に物質が存在するとしてもなお我々の認識が相対的であるということは十分あり得るからだ。日々の実験を通じて、我々の認識は無限に真理に近付いていく。というのが通常の科学の立場だろう。
一方、普通の人々にとっては科学的知識とは「そういうもんだ」でやって来るわけで、見ようによっては信仰と区別ができない場合がある。その意味で、科学的知識も相対的に把握されるし、また新しい発見などで科学的知識が更新されても、多くの場合、「発展」ではなくて「乗り換え」として捉えられるのだろう(古典力学と量子力学の関係のように)。でもそれは、単に研究のプロセスを知らないということだけから生じる「相対性」である。
というわけで、ここでも 1 と 5 の混同がなされていることが多い。
ニセ科学批判について触れたのでもう一点。
「そういう限定されたものを批判しているというのがわからなくなるから、ニセ科学批判は批判対象を限定すべきだ」という意見について(これも散見されるという印象がある)。
これはもう論者によりけりで、それでいいのだと私は思っている。なぜ批判するのかという「個人的」動機が人により異なるからだ。
しかし異なるのは「個人的」動機であり、批判の中身は客観的なものを対象としている限りはある程度収斂していくだろう。
しかしその対象は幅広い。客観的事実として提示されるものは、すべて科学的批判(吟味という意味での批判)の対象になり得るからだ。
たとえば私は江原啓之などの安易な「スピリチュアル」についても色々と批判をしている。その場合、私にとっては、次の二つの観点からの批判になる。
(1)その主張の客観的事実に関する側面。オーラが存在するとか。大槻義彦氏が批判するのもこの点ですね。でも、それが彼らの主張のすべてではないということには留意しなければならない。しかし、客観的に間違いと言える部分はどうやったって間違いなのであり、間違いを科学的に正しいかのように言うのはニセ科学と言っても私は良いと考える。意味を拡散させないためには、もしかしたら「○○のニセ科学的側面」のように使う方が混乱しなくていいのかもしれないが(○○には例えばスピリチュアル或いは江原啓之の主張、などが入る)。
(2)その思想がもたらす社会的影響。これは自然科学の問題ではない。自由と民主主義をいかに守り発展させるかという価値観が前面に出る話だ。例えば自分に悪い事が起こったのが自分の祈りが足りないせいであると言うのなら、あらゆる行為は自己責任であり、己に責があるということになる。正社員になれないのも、首を切られるのも、派遣が打ち切りにされるのも、ホームレスになるのも自分の責任ということになる。私はそんな社会はゴメンだ。だから、そんな思想がはびこらないよう、その側面も批判する。
批判しているのが同じ人間だし、一つの主張の中に(1),(2)両方の点で批判されるべき点が含まれていることも少なくないので、もしかしたら見ている方には混乱を与えるのかもしれない。でも、科学的な面でおかしいことはおかしいと言うことをためらうべきではないし、また民主主義を守ろうという面からおかしいことはやはりおかしいと言うべきだと思うので、これは私ではなくてそういう無茶苦茶な主張をする人々が悪いというしかない。
最後にニセ科学批判はどこまで届いているのか、ということについて。
これは、私はかなり悲観的。ネット上の議論は「所詮」(あえて所詮と言いますが)ネット上、ごくごく限定されたところにしか広がっていないと思う。
たとえばニセ科学批判に継続的にコミットされているブログなどを継続的に見ている人は一体どれくらいいるだろう。千人もいるだろうか。数百人?kikulog とかだともっとずっと多いのかな。いずれにしても、日本の人口と比較すると、残念ながら大した数ではない(もちろん全人口と比較しての話であって、ネット上での発言は明かに増えているし、全体としてはいい方向に進んでいると断言してもいいのだが)。年齢層もある程度限定される。
ではマスコミではどうだろう。最近も「ミヤネ屋」で水伝批判があったけれども、あれも平日昼間の番組だ。教育関係者はほとんど見ていないだろう。
結局、問題意識のある人が、より問題意識を深めるためにはとても有益な情報を提供しているが、問題意識を持ってもらうには無力であると言うしかない。それはネットの宿命でもある。そして、たまにニュースサイトなどでニセ科学批判が取り上げられ、読者が殺到しても、それは一過性のもので、新たに問題意識を獲得する人はごく少数だろう(だから無駄だ、と言っているわけではなくて、そこに幻想を持つべきではない、という話)。
じゃあどうすればいいのかというと、活字情報を増やすというのが重要だろうとは思っているのだけど、そんなことを言ってもはじまらんし、結局はいまのように地道にネット上で批判を繰り広げていくのがいいのだろう、と思っている。悲観的に書いたが、確実に進歩はしているわけだし、少なくとも私にとっては問題意識を深めるのにネットは大変役に立っている。それはリアルでのやり取りにも反映される。「百猿現象」はニセ科学だが、一方で「量から質への転化」という言葉もあるように、増大するネット上の情報が、そのうち新たな質を獲得し、より広範な範囲へ「届く」状況への発展することは大いにありそうなことでもある。
というわけで、コツコツやろう、前向きに、と思う。
すいません、まとまっていなくて自分用のメモということで、色々なことが説明なしに語られています。リンクもないし、わかりずらいかも。かも、じゃなくて、わかりずらいですね。(^^;;
なんか書かないと思考が深まらんので(チラシの裏にでも書いてろ、という批判は甘んじて受けつけますが^^;;)、ちょっと書いてみました。いずれ個別のテーマに関してまとめられたらいいなあと思っています。
(追記11/30午後8時ごろ)
ブクマでmihrdatさんから以下のコメントをいただきました。
まず、「ある事を述べていない事と考えていない事は別」は一般論としてはその通りです。mihrdatさんが具体的にどの点について言及したのかがよくわからないのですが、文脈から finalvent氏についてだと想定します(違っていればコメントいただけるとありがたいです)。さて、このエントリは、finalvent氏に対する批判を目的にしたものではありません。きっかけにはなっていますが。finalvent氏の論に対する言及は、このエントリ中では「finalvent氏」という単語が出てきたパラグラフだけ、と理解していただきたいと思います(もっとも、その後の展開を見ていると、5と1をごっちゃにしているような感じがしないでもありませんが…)。
次に、「水伝での菊池氏」についてですが、「2、3、4の話はすっとばして」というのは、無視したわけではなくて、単にこのメモでは論点として別の話になるので言及しなかった、というだけの話です(述べていない事と考えていない事は別、ですね^^)。
ついでなので少し書きます。「水伝」について言うと、実はなかなか難しいです。というのは、「水が言葉を理解しない」というのは、本質的な理解という点では水の研究者だけではなくて物理系研究者ならちゃんと理解している(はずの)ことだからです。菊池さんが水を研究対象にしていないから(あるいはより限定して水と言葉の関係の研究でもいいですが)と言って、それが菊池さんを2ないし3に分類することが妥当であるとは思えません。
わかりやすいのはむしろ「マイナスイオン」の方ですね。こちらは専門的な研究が色々なされているわけで、結局「メーカー側からちゃんとしたデータを出してくれないとなんとも言えない」というところでストップしているのが現状だと理解しています。この問題については、菊池さんの立場は2あるいは3、ということになりますね。「血液型性格判断」もニセ科学のタイプは「マイナスイオン」とは異なりますが、心理学研究者が専門的な研究を深めており、こちらも2ないし3に分類するのが妥当ではないかと思います。
なおこの分類は、通常の研究と、それを取り巻く社会のありようについて考察した結果のものです。ニセ科学批判ということになると、批判する相手が通常の科学的作法に従って研究しているわけではないので、(関連するとは思いますが)また別に考察する必要があると思っています(というわけで、このエントリのテーマは「科学」になっているのです。「ニセ科学」ではなく)。
(追々記12/1午前1時半ごろ)
どうも私が誤解していたようです。
2,3,4をすっとばしたのは、要するにそこをきちんと論じるのが難しいからです。1と5の関係に比べればね。1と5のレベルの関係は当然昔から問題にされているわけですから、ここで改めて指摘した、という以上の意味はないです。ですが、このタイミングで、ここで改めて「色々な階層があるので分けて考えようよ」と指摘することには意味があるかな、と思っています。
まあ2,3,4にしたって、なんらかの形で自然科学系の研究と関わっている人であれば日常経験することなわけで、とりたてて目新しいことになるとは私も思っていませんが、ネット上の議論として出すことに意味はあるかなとも思っていますので、いずれまた何らかの形で深めていきたいとは思っています。
(もういっちょ追記)
まとまっていないのでメモということで。
ここのところのネット上及びリアルでの議論で漠然と考えていることです。漠然と考えていても始まらないので、少し文章化。相対主義、構成主義とも関係。
ニセ科学批判を批判する人々を見ていて思ったのは(彼らだけではなく、反科学的なことを言う人々もですが)、認識の相対性にも階層性があるということを見落としているのではないか、ということ。
ざっと考えて、少なくとも以下の階層は区別して論じられなければならない。
1. ある問題について調べている研究者集団の認識
2. その研究者集団をとりまく研究者たちの認識
3. その研究者を含む分野の認識
4. その研究を伝える人々の認識
5. その研究についての社会一般における認識
具体例で言うと、
1. 素粒子実験(超対称性粒子はあるか、とか)
2. 素粒子物理の中でその実験に関連した研究をしている人々(超対称性粒子に関する理論・実験に従事する人々)
3. 素粒子物理の論文が主に掲載されるジャーナルがカバーする分野
4. 教育者やジャーナリスト、あるいは研究としては分野外だけれども、大学教育で教える研究者とか
5. 普通の人々(まったく分野外の研究者も含めて)
5a. 興味があって自分で色々調べる人
5b. 新聞や雑誌などで聞きかじり、雑談とかで話題にする人
5c. 興味もなにもない人
という感じ。
finalvent 氏みたいな人が「信」というのは 5 の階層、もっと言えば 5b, 5c の話で、そりゃまあそういう人々は自分で調べるわけじゃないから科学者集団への「信」がまるで信仰のように見えるということはあるでしょう。社会における科学の受容、みたいな話にもつながるわけで、それはそれで社会学的にも重要だろう。
一方、「だから認識とは相対的なもので、絶対的に正しいなんてない」というのは 5 のレベルでの話を 1 にまで適用する間違い。 1→2→3→…と来るにしたがってフィルターがかかり、ほとんど間違いは淘汰されていくので、状況は全然違う。もちろん、実験結果の解釈における理論負荷性の問題とか色々あるけれども、それも研究者の認識のダイナミズムを忘れた静的な理解の上に成り立つ産物であって、個々の場面での理論負荷性が研究全体を貫くわけではない(相互批判も活発だしね)。
さらに関連して、ニセ科学批判への批判でも、多くの場合これらの混同が見られる。「水が言葉を理解することがわかる日が来るかもしれない」なんてのが典型的で、それは 5 の階層ではなぜ水が言葉を理解しないかということが深いところでわかっているわけではないことによる。いやもちろん常識でわかることなんだけれども、その常識を一旦疑いだすと、それをどう否定したらいいかわからない、という人が結構多いといのが本当のところではないだろうか。
ついでに言えば中谷宇吉郎の仕事を仮に知っていたとしても、それこそ江本勝本人のように、尊重していると言いながら平気でそれを否定するような行動を取る場合がある。つまり、中谷の仕事に関する知識と「水の結晶」に関する知識がリンクしていない。まさに、科学的認識において最も重要な「総合」のプロセスが働いていない。
そして、1 のレベルで、仮説の提示やそれを潰す実験などが繰り返し行われ、あたかも科学的知識などはコロコロ変わる不安定なものだのような中途半端な知識があると、既に確立した話であっても同様なものと見做す。それはニセ科学批判に対し、「絶対なんてないんだから」とか「グレーゾーンはあるんだから」などと言って批判する態度に表れる。多くのニセ科学批判が科学的に確立した知識に基づき「ほぼ真っ黒」なのに白と言いはったり、「まだグレー」なのに白と言いはったりしている状況を見ない。知らないんだったらしょうがないけど、でも具体例として血液型性格判断への批判やマイナスイオンへの批判を耳にしていても、そういうものを批判する「ニセ科学批判」というものがグレーな部分への批判まで含むと思い込んで、ニセ科学批判への批判をするという場面はまま見受けられる(私は最近リアルで遭遇した)。
ええと分類だけして 2,3,4 の話はすっとばして、^^;;
認識の話に移ると、我々は誰しも自然を「ありのままに」認識するなんてことはできやしない。自然を要素に分解し、 個々のパーツを理解し、さらにそれを総合、つまり再構成することによって自然を認識していく。その意味で構成的な理解をする。もちろんどのように要素に還元するかはアプリオリに決まっているものではないし、また教育においてであればなんらかの法則として確立した方法で要素に還元していくわけで、その意味で理論負荷性というか人類が構築した法則に従って自然を認識しているということは言える。
しかしもちろんだからと言って自然そのものが極端な相対主義が唱えるようなものであるということには全くならない。厳然と人類の意識の外に物質が存在するとしてもなお我々の認識が相対的であるということは十分あり得るからだ。日々の実験を通じて、我々の認識は無限に真理に近付いていく。というのが通常の科学の立場だろう。
一方、普通の人々にとっては科学的知識とは「そういうもんだ」でやって来るわけで、見ようによっては信仰と区別ができない場合がある。その意味で、科学的知識も相対的に把握されるし、また新しい発見などで科学的知識が更新されても、多くの場合、「発展」ではなくて「乗り換え」として捉えられるのだろう(古典力学と量子力学の関係のように)。でもそれは、単に研究のプロセスを知らないということだけから生じる「相対性」である。
というわけで、ここでも 1 と 5 の混同がなされていることが多い。
ニセ科学批判について触れたのでもう一点。
「そういう限定されたものを批判しているというのがわからなくなるから、ニセ科学批判は批判対象を限定すべきだ」という意見について(これも散見されるという印象がある)。
これはもう論者によりけりで、それでいいのだと私は思っている。なぜ批判するのかという「個人的」動機が人により異なるからだ。
しかし異なるのは「個人的」動機であり、批判の中身は客観的なものを対象としている限りはある程度収斂していくだろう。
しかしその対象は幅広い。客観的事実として提示されるものは、すべて科学的批判(吟味という意味での批判)の対象になり得るからだ。
たとえば私は江原啓之などの安易な「スピリチュアル」についても色々と批判をしている。その場合、私にとっては、次の二つの観点からの批判になる。
(1)その主張の客観的事実に関する側面。オーラが存在するとか。大槻義彦氏が批判するのもこの点ですね。でも、それが彼らの主張のすべてではないということには留意しなければならない。しかし、客観的に間違いと言える部分はどうやったって間違いなのであり、間違いを科学的に正しいかのように言うのはニセ科学と言っても私は良いと考える。意味を拡散させないためには、もしかしたら「○○のニセ科学的側面」のように使う方が混乱しなくていいのかもしれないが(○○には例えばスピリチュアル或いは江原啓之の主張、などが入る)。
(2)その思想がもたらす社会的影響。これは自然科学の問題ではない。自由と民主主義をいかに守り発展させるかという価値観が前面に出る話だ。例えば自分に悪い事が起こったのが自分の祈りが足りないせいであると言うのなら、あらゆる行為は自己責任であり、己に責があるということになる。正社員になれないのも、首を切られるのも、派遣が打ち切りにされるのも、ホームレスになるのも自分の責任ということになる。私はそんな社会はゴメンだ。だから、そんな思想がはびこらないよう、その側面も批判する。
批判しているのが同じ人間だし、一つの主張の中に(1),(2)両方の点で批判されるべき点が含まれていることも少なくないので、もしかしたら見ている方には混乱を与えるのかもしれない。でも、科学的な面でおかしいことはおかしいと言うことをためらうべきではないし、また民主主義を守ろうという面からおかしいことはやはりおかしいと言うべきだと思うので、これは私ではなくてそういう無茶苦茶な主張をする人々が悪いというしかない。
最後にニセ科学批判はどこまで届いているのか、ということについて。
これは、私はかなり悲観的。ネット上の議論は「所詮」(あえて所詮と言いますが)ネット上、ごくごく限定されたところにしか広がっていないと思う。
たとえばニセ科学批判に継続的にコミットされているブログなどを継続的に見ている人は一体どれくらいいるだろう。千人もいるだろうか。数百人?kikulog とかだともっとずっと多いのかな。いずれにしても、日本の人口と比較すると、残念ながら大した数ではない(もちろん全人口と比較しての話であって、ネット上での発言は明かに増えているし、全体としてはいい方向に進んでいると断言してもいいのだが)。年齢層もある程度限定される。
ではマスコミではどうだろう。最近も「ミヤネ屋」で水伝批判があったけれども、あれも平日昼間の番組だ。教育関係者はほとんど見ていないだろう。
結局、問題意識のある人が、より問題意識を深めるためにはとても有益な情報を提供しているが、問題意識を持ってもらうには無力であると言うしかない。それはネットの宿命でもある。そして、たまにニュースサイトなどでニセ科学批判が取り上げられ、読者が殺到しても、それは一過性のもので、新たに問題意識を獲得する人はごく少数だろう(だから無駄だ、と言っているわけではなくて、そこに幻想を持つべきではない、という話)。
じゃあどうすればいいのかというと、活字情報を増やすというのが重要だろうとは思っているのだけど、そんなことを言ってもはじまらんし、結局はいまのように地道にネット上で批判を繰り広げていくのがいいのだろう、と思っている。悲観的に書いたが、確実に進歩はしているわけだし、少なくとも私にとっては問題意識を深めるのにネットは大変役に立っている。それはリアルでのやり取りにも反映される。「百猿現象」はニセ科学だが、一方で「量から質への転化」という言葉もあるように、増大するネット上の情報が、そのうち新たな質を獲得し、より広範な範囲へ「届く」状況への発展することは大いにありそうなことでもある。
というわけで、コツコツやろう、前向きに、と思う。
すいません、まとまっていなくて自分用のメモということで、色々なことが説明なしに語られています。リンクもないし、わかりずらいかも。かも、じゃなくて、わかりずらいですね。(^^;;
なんか書かないと思考が深まらんので(チラシの裏にでも書いてろ、という批判は甘んじて受けつけますが^^;;)、ちょっと書いてみました。いずれ個別のテーマに関してまとめられたらいいなあと思っています。
(追記11/30午後8時ごろ)
ブクマでmihrdatさんから以下のコメントをいただきました。
mihrdat "見落としているのではないか">ある事を述べていない事と考えていない事は別。"2,3,4 の話はすっとばして、^^;;">水伝での菊池氏は3なのに(2と見るのは無理だろう)それは無視?本人がこの"階層性"を理解していない様だ。ちょっと文意が掴み切れないのですが、若干補足します。
まず、「ある事を述べていない事と考えていない事は別」は一般論としてはその通りです。mihrdatさんが具体的にどの点について言及したのかがよくわからないのですが、文脈から finalvent氏についてだと想定します(違っていればコメントいただけるとありがたいです)。さて、このエントリは、finalvent氏に対する批判を目的にしたものではありません。きっかけにはなっていますが。finalvent氏の論に対する言及は、このエントリ中では「finalvent氏」という単語が出てきたパラグラフだけ、と理解していただきたいと思います(もっとも、その後の展開を見ていると、5と1をごっちゃにしているような感じがしないでもありませんが…)。
次に、「水伝での菊池氏」についてですが、「2、3、4の話はすっとばして」というのは、無視したわけではなくて、単にこのメモでは論点として別の話になるので言及しなかった、というだけの話です(述べていない事と考えていない事は別、ですね^^)。
ついでなので少し書きます。「水伝」について言うと、実はなかなか難しいです。というのは、「水が言葉を理解しない」というのは、本質的な理解という点では水の研究者だけではなくて物理系研究者ならちゃんと理解している(はずの)ことだからです。菊池さんが水を研究対象にしていないから(あるいはより限定して水と言葉の関係の研究でもいいですが)と言って、それが菊池さんを2ないし3に分類することが妥当であるとは思えません。
わかりやすいのはむしろ「マイナスイオン」の方ですね。こちらは専門的な研究が色々なされているわけで、結局「メーカー側からちゃんとしたデータを出してくれないとなんとも言えない」というところでストップしているのが現状だと理解しています。この問題については、菊池さんの立場は2あるいは3、ということになりますね。「血液型性格判断」もニセ科学のタイプは「マイナスイオン」とは異なりますが、心理学研究者が専門的な研究を深めており、こちらも2ないし3に分類するのが妥当ではないかと思います。
なおこの分類は、通常の研究と、それを取り巻く社会のありようについて考察した結果のものです。ニセ科学批判ということになると、批判する相手が通常の科学的作法に従って研究しているわけではないので、(関連するとは思いますが)また別に考察する必要があると思っています(というわけで、このエントリのテーマは「科学」になっているのです。「ニセ科学」ではなく)。
(追々記12/1午前1時半ごろ)
どうも私が誤解していたようです。
mihrdat / (追記見て全く通じてないようなので書直し)1.例えば菊池氏がこういう階層性の事見落としてると思う? 2."1"と"5"だけしか論じないのなら大仰な「階層性」なんて言葉不必要;2-4論じて初めてこの言葉の意義が出る菊池さん(に限らずニセ科学批判にコミットしている人々の多く)は当然こんなことは考えているでしょう。そんなのは大前提で書いたつもりでしたが伝わってませんでしたか。私が意識していたのは、ニセ科学批判を批判している人たちの言動です(ネット上だけじゃなくて、私がいままで接してきた人々を含め)。もやもやしていたのでスッキリと整理させたかったのですが、現状ではまだまとまらないので「メモ」としたわけです。
2,3,4をすっとばしたのは、要するにそこをきちんと論じるのが難しいからです。1と5の関係に比べればね。1と5のレベルの関係は当然昔から問題にされているわけですから、ここで改めて指摘した、という以上の意味はないです。ですが、このタイミングで、ここで改めて「色々な階層があるので分けて考えようよ」と指摘することには意味があるかな、と思っています。
まあ2,3,4にしたって、なんらかの形で自然科学系の研究と関わっている人であれば日常経験することなわけで、とりたてて目新しいことになるとは私も思っていませんが、ネット上の議論として出すことに意味はあるかなとも思っていますので、いずれまた何らかの形で深めていきたいとは思っています。