分岐点としての帰無仮説
いやふと思ったことなんですが。
最近、TAKESANさんとこの掲示板 でABO FAN氏と議論をしていて、あらためて、「ああ、この人は帰無仮説をわかってないんだな」と実感したわけです。いままでも当のTAKESANさんをはじめ、色々な方が指摘されていましたけれども。
で、最近、また某Yahooの掲示板 で、SSFS氏(ssfs2007氏)が暴れているのですが(対応されているabc_wood_abcさんの努力は大したものです)、SSFS氏と言えば、ちょっと前に「帰無仮説に逃げないこと 」という迷言を吐かれたのですよね。
たとえば血液型性格判断だったら、帰無仮説として「血液型と性格に相関はない」を設定し、有限なサンプリングによる誤差を考慮してもなお「ない」と言うには難しいほどの相関があれば、それは有意な相関だ、とみなすわけです(もちろん「有意」というだけでは「意味が有る」とはまだならなくって、十分な考察が必要なのですが)。
たとえばドライヤーの効果だったら、「ドライヤーの効果の効果ではない」を帰無仮説とし、それを否定できるだけの違いが見出せて初めて効果があるかもしれない、となるわけです。
で、有意な相関が見られなければ、「血液型と性格に相関があるとは言えない」「ドライヤーの効果であるとは言えない」となる。
これはもちろん「血液型と性格に相関はない」ではないし、「ドライヤーに効果はない」でもない。あくまでも、「~とは言えない」という言明です。
ところが彼らはこの違いがわからない。
ABO FAN氏は、心理学者が「相関があるとは言えない」と言っているのを勝手に「相関がない」と言っているものと解釈し、「あるとは言えない」を否定すれば「相関がある」になると思い込んでいる(少なくともそういう立場で発言している)。
SSFS氏も「ドライヤーに効果があるとは言えない」とみんなが言っているのに、それを勝手に「ドライヤーに効果はない」と言ってるもんだと勘違いして、「あるとは言えないと言える根拠はなんだ!」と突っかかる。根拠がないから「あるとは言えない」と言っているのにね。
もちろん、本当はさらにその先に、「あるとは言えないし、強い相関はないということは言える」となるわけですが、これを言うとさらに勘違いが暴走するのですよねえ。
というわけで、まああちこちで何度も言われていることですが、定量的な思考ができないということが根本にあると言えそうで、それをスローガン的に言うと「帰無仮説を理解しているか否かで論者の質を見極めることが大体できる」となりそうな感じがします。部分否定と全否定の混同、という言い方もできるとは思いますが。
まあ帰無仮説と限定しなくてもいいのですが、そういう定量的な発想、あるいは程度問題としての捉え方というのは、科学的なものの見方においては相当重要なものなのではないか、と思います。形式論理をふりかざしてわけわからん結論を出す、というのは結構見るような気がするし。
…彼らが気付く日は来るんでしょうかねえ…。
最近、TAKESANさんとこの掲示板 でABO FAN氏と議論をしていて、あらためて、「ああ、この人は帰無仮説をわかってないんだな」と実感したわけです。いままでも当のTAKESANさんをはじめ、色々な方が指摘されていましたけれども。
で、最近、また某Yahooの掲示板 で、SSFS氏(ssfs2007氏)が暴れているのですが(対応されているabc_wood_abcさんの努力は大したものです)、SSFS氏と言えば、ちょっと前に「帰無仮説に逃げないこと 」という迷言を吐かれたのですよね。
たとえば血液型性格判断だったら、帰無仮説として「血液型と性格に相関はない」を設定し、有限なサンプリングによる誤差を考慮してもなお「ない」と言うには難しいほどの相関があれば、それは有意な相関だ、とみなすわけです(もちろん「有意」というだけでは「意味が有る」とはまだならなくって、十分な考察が必要なのですが)。
たとえばドライヤーの効果だったら、「ドライヤーの効果の効果ではない」を帰無仮説とし、それを否定できるだけの違いが見出せて初めて効果があるかもしれない、となるわけです。
で、有意な相関が見られなければ、「血液型と性格に相関があるとは言えない」「ドライヤーの効果であるとは言えない」となる。
これはもちろん「血液型と性格に相関はない」ではないし、「ドライヤーに効果はない」でもない。あくまでも、「~とは言えない」という言明です。
ところが彼らはこの違いがわからない。
ABO FAN氏は、心理学者が「相関があるとは言えない」と言っているのを勝手に「相関がない」と言っているものと解釈し、「あるとは言えない」を否定すれば「相関がある」になると思い込んでいる(少なくともそういう立場で発言している)。
SSFS氏も「ドライヤーに効果があるとは言えない」とみんなが言っているのに、それを勝手に「ドライヤーに効果はない」と言ってるもんだと勘違いして、「あるとは言えないと言える根拠はなんだ!」と突っかかる。根拠がないから「あるとは言えない」と言っているのにね。
もちろん、本当はさらにその先に、「あるとは言えないし、強い相関はないということは言える」となるわけですが、これを言うとさらに勘違いが暴走するのですよねえ。
というわけで、まああちこちで何度も言われていることですが、定量的な思考ができないということが根本にあると言えそうで、それをスローガン的に言うと「帰無仮説を理解しているか否かで論者の質を見極めることが大体できる」となりそうな感じがします。部分否定と全否定の混同、という言い方もできるとは思いますが。
まあ帰無仮説と限定しなくてもいいのですが、そういう定量的な発想、あるいは程度問題としての捉え方というのは、科学的なものの見方においては相当重要なものなのではないか、と思います。形式論理をふりかざしてわけわからん結論を出す、というのは結構見るような気がするし。
…彼らが気付く日は来るんでしょうかねえ…。