乗客に日本人はいませんでした | ほたるいかの書きつけ

乗客に日本人はいませんでした

 帰りの電車の中で音楽*1 を聴きながらウトウトしていたら、ふいに別の曲が頭の中で鳴り出した。THE YELLOW MONKEY の「JAM」である。好きな曲の一つだ。…いや、好きと言う以前に、心をチクチク刺すので忘れられない曲、と言った方がいいのかもしれない。イエモンの他の曲は特に好きと言うわけではないし。

 子どもの頃、私もニュースで旅客機が墜落すると「乗客に日本人はいませんでした」と何度もアナウンサーがしゃべるのをおかしいと感じていた。日本人じゃなかったらいいのか、と。天の邪鬼なガキだったのだな。*2
 そのうち、たしか親だったと思うが、「日本でやってるニュースなのだから見ている人のほとんどは日本人だ。乗客に日本人がいないとわかれば、大半のニュースを見ている人は自分の関係者は無事であることがすぐにわかる。だから、そう言うことに意味はあるのだ」と言われ、なにか釈然としないものを感じながらも、確かに合理的だよなあ、と納得したのを憶えている。

 それから何年も過ぎ、当時大学院にいたころだと思うが、この「JAM」を知ったのだった。なんで知ったのかは覚えていない。当時は芸能界の動向などほとんど知らず(今も昔も知らないけど)、朝遅くに起きて新聞読んだら研究室に行き、夜は銭湯の閉まる時間ギリギリに慌てて帰って風呂に入り、酒を呑みながら本を読んだりマンガを読んだりという生活だった(テレビはバックグラウンドとしてつけていたけど、内容はあまり見ていなかったような気がする。夜中の再放送のアニメとかぐらいかも。見てたのは。テレビのツボとかやってたのはこのころかな。もうちょい前かな)。というわけで、歌番組も見なかったのだけど、まあなんかのきっかけで知ったのだろう。で、この歌詞を聞いて、昔感じた違和感がまた急に膨らんできたのだ。

 電車の中でウトウトしながら勝手に連想が続き、最近ネット上であった論争(キーワードは「トリアージ」「かわいそう」「ホロコースト」あたりか。これでもまだ断片だと思うけど)を思い出していた。つまり、視聴者の関係者に事故の被害者はいないということを効率よく伝える「乗客に日本人はいませんでした」という言葉、これはまさに合理主義の極であり、情報伝達の最適化をした結果生み出されたもの。ところが、それに対する漠然とした違和感の原因というものが、最適化の結果、捨象されてしまったものへの視点にあるのではないか、と。その意味で、構造が似た側面があるよなあ、などと思っていたのだった。
 もちろん、緊急事態なのであるから、いちいちニュースでそういう視点について解説しているわけにはいかないだろう(今ならネットもあるしまた少し違うのだろうが)。ただ、どこに最適化するか、ということは、実はまったく自明ではなく、価値判断が入るわけだ。大半の視聴者が安心できればよい、という価値判断が。
 結局、ある特定の価値観を持った上での判断だから、別の価値観に立脚することは否定されようがなく、視点を相対化できれば違和感もなくなりようがない。逆に言うと、そういった違和感を感じなくなるということは、最適化への批判的視点がなくなるということなのではないか。捨象される人々への視点がなくなるということではないか。その意味で、ホロコーストと同じ論理構造なのではないか、という気がする。特定の価値観の上にたった合理主義、という認識がなくなってしまう、と。

 それは結構怖いことで、いままでこのブログでも問題にしてきた「水伝」も、ある意味同じことだ。「水が綺麗な結晶を作ることは善、汚い結晶を作る/結晶を作らないことは悪」という特定の価値観に立脚した上での合理主義を極めれば「水伝」の世界になる。ここで注意しなければならないのは、仮に「『ありがとう』という言葉を見せると綺麗な結晶を作る」ということが科学的に正しいとしても(実際は正しくありませんよ)、「綺麗な結晶ができるかどうか」を判断基準にするということは、極めて合理的で善行のための最適化がなされているように見えても、所詮は「綺麗な結晶ができるものを善とする」という特定の価値観に立っているということを忘れてはならないということである(これはいままで何度も何度もあちこちで語られてきた「科学を道徳の根拠にしてはならない」ということと同じである)。
 もし土台の設定に価値判断が入っていることが忘れられると、たとえばSFじみた話をすれば、近未来社会では18歳になったら全員顔写真を水に見せてどんな結晶ができるかテストされ、結晶の美醜で将来が決定される…などという「合理的」で「最適化」された社会がやってこないとも限らない。

 たぶん、このことは、poohさんkatsuyaさん が述べられているような「呪術」「魔術」といったキーワードとも関係してくるのではないか、と思っているのだが、そこまで展開する能力が私にはないのが恨めしいところだ。

 だいぶ話が拡がってしまった。元に戻そう。
 「乗客に日本人はいませんでした」への違和感は、おそらく、「トリアージ」に対して「かわいそう」と思うこと、「水伝」において「水に判断してもらっていいのだろうか」と疑問を持つこと、と同じ構造を持つのではないか。
 だからなんだと言われると困ってしまうのだが、要は、そういう違和感を大切にしたい、ということだ。
あの偉い発明家も凶悪な犯罪者も
みんな昔子供だってね
外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは嬉しそうに
「乗客に日本人はいませんでした」「いませんでした」「いませんでした」
僕は何を思えばいいんだろう
僕は何て言えばいいんだろう
こんな夜は逢いたくて逢いたくて逢いたくて
君に逢いたくて 君に逢いたくて
また明日を待ってる  (THE YELLOW MONKEY「JAM」より)
表面上の合理主義だけではなく、そういう感覚的な部分も重要なのだろう、と思う。もっとも、感覚的な部分を深めていけば、それはより大きな枠組みでの合理的判断にもつながるのだと思う。価値観の相対化と、相対化を経た上での価値基準の再設定というプロセスを通じて。


***

 まあなんかうまく言えないのだけど、ひとりごとというかつぶやきというか、ちょっと頭の中を整理してみたくなったのでした。結局はあちこちで言われていることを焼きなおしただけなんですけどね。

*1 聴いていたのは SEX MACHINGUNS の 「TEKKEN II」。どちらも切ない曲ですから。たぶん。
*2 「天の邪鬼な餓鬼」だと「鬼」が二つも入ってこわいですね~。どうでもいいが、天の邪鬼というと「奇面組」の天野邪子を思い出します。