侵略の帰結としての8月15日 | ほたるいかの書きつけ

侵略の帰結としての8月15日

 今年も8月15日、「終戦記念日」がやってきた。
 この日の捉え方は様々だろうが、戦争はしてはいけない、というのが大方の思うところだろう。
 私もそれに異論を挟むつもりはないし、当然、戦争なんてしてはいけないと思う。ただ、ここで敢えて言いたいのは、「戦争はイカン」というのはある意味小学生でも言える理屈であって、それは大前提として共有されなければいけないけれども、しかしそれだけでは不十分であろう、ということである。
 戦争は自然災害ではないし、事故でもない。原因があって、その結果戦争がおきるのである。なにを原因とするかは国際政治の中で色々と解釈はできるだろうけれども、明確に言えるのは、国際紛争を解決する手段として武力を意志をもって選択し、他国を侵略する、ということが直接的な原因であり、責任能力を有する国家(あるいは政府)のまさに責任において決断され実行されるということであろう。
 要するに、「戦争はイカン」から一歩進み、「侵略はイカン」とならなければいけないのではないか、と思うのだ。

 侵略に対抗する自衛的な戦争をどう見るかという問題もあるだろう。侵略されれば戦うべしという人も、(私は与するものではないが)無抵抗で侵略されるにまかせ場合によっては黙って殺されるのもやむなしとする人もいるだろう。しかしそもそも侵略という行為があるからいけないのである。単に戦争一般を悪とするだけでは歴史から何かを学んだとは言えないだろう。

 いい大人、しかも侵略を推進した人々の系列に連なる連中が、単に「戦争はイカン」というのを聞いていると、私にはまるで「泥棒に合うのは対策をしない方が悪い」「痴漢にあうのはあう方も悪い」的な発想を感じてしまう。まあ「レイプは元気があって正常」発言 をするような人(太田誠一)が閣僚になるような政府だからねえ、と諦めもよぎるのだが。

 しかし、原因があって結果があるのであるから、その直接の原因としての侵略をきちんと批判しないことには、その結果としての戦争をなくすこともできないだろう。やはり、「侵略がイカン」「侵略戦争がイカン」と堂々と言えるようにならないといけないのではないか、と改めて思う。