秋葉原無差別殺傷事件に関連して
色々報道がされていますが。
多くの方が指摘しているように、今回(も)その報道には多くの問題点があると言わざるを得ない。事件の背景について断片的な情報しか明らかになっていない段階でさもわかったかのように言うのは事件の解明の社会的な意味を曇らし大きな問題がある。
例えば、断片的な報道の見出しから、こういうこも言えてしまうだろう。
「「親とうまくいっていない」 加藤容疑者、孤立深める?」(『朝日』6/11 3:08 )
親とうまく行っていないから事件を起こしたんじゃないのか?(そんなヤツはどこにでもいる)
「「仕事でむしゃくしゃ」加藤容疑者、事件前に職場で激高」(『朝日』6/10 11:35)
激高するぐらい仕事にむしゃくしゃしてたからじゃない?(激高までいかなくとも仕事にむしゃくしゃしてるヤツは山ほどいる)
「一昨年、友人らに自殺ほのめかすメール 秋葉原事件」(『朝日』6/10 8:19)
一度でも自殺を臭わすような言動をするくらいだから、自暴自棄になっても不思議じゃないよね?(何年も前の言動が直接関係あるか!)
「「おとなしくて無口」加藤容疑者を知る人々 秋葉原事件」(『朝日』6/9 19:06)
無口なヤツは何をしでかすかわからないよねえ?(じゃあどうすりゃいいのだ!?)
「加藤容疑者「車で多額の借金」、リストラ情報でも不安」(『読売』6/12 3:03)
多額の借金で自暴自棄になったんじゃない?(大勢いるぞ)
スポーツカーなど乗り回してるヤツは殺人したっておかしくないよね?(おかしいおかしい)
リストラに怯えてたらやりかねないよね?(リストラに怯えてる人一体どれだけおんねん)
まあおそらく先の見えない派遣人生に絶望して自暴自棄になった+本人の特性+ナイフに興味が行った、というあたりなのだろうけれども(これも断片的情報からの推測にすぎないけれども)、報道の一部を適当に組み合わせればどんな滅茶苦茶な理屈もつけられてしまうことにメディアの人々はいい加減慎重になるべきなんじゃないだろうか。
さて、対策として早速ナイフが槍玉に上がっているようだ。それはそれとしてやればいいと思うけれども、それだけでは全然解決にならないだろう。ナイフを規制したところで別の凶器に行くだけだからだ。
生活が厳しく、先の人生に展望が持てなければ、誰だっていやになるし、自暴自棄にもなろう。だから、凶器の規制はあくまでも対処療法的なものと心得るべきで、、この手の事件を減らそうと思えば、自暴自棄になる人を減らさなければならない。
それについて興味深いデータがある。
アメリカ合衆国は周知のとおり一般市民の銃の保有率が世界一だ。それに伴って、銃による殺人事件が多い。マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」を挙げるまでもないだろう。そして、銃による殺人を減らすため、銃の規制を求める人々と、全米ライフル協会を中心とする銃を保有する権利を求める人々との間で激しい対立があるのもよく知られるところだ。
さて、銃の保有率の多い国はアメリカ以外ではどこだろうか?
少し前に話題にもなったので御存知の方も多いかもしれない。スイスのジュネーブ高等国際問題研究所(The Graduate Institute of International Studies in Geneva )による小型武器に関するプロジェクト、"Small Arms Survey "2007年版によると、100人当たりの銃を保有している人数は以下のようになっている。
その意味で、生前チャールトン・ヘストンが言い続けた「銃が人を殺すのではない」というのは、その限りにおいては真実であると言わざるを得ない。少なくとも、世界には銃があっても安易に人を殺さない国の人々がいるのだ。
ということは、殺人を減らすには、武器を規制するだけではダメで、もっと根本的な理由を考えなければいけない、ということになる。
そこで、当然考え付くのが、やはり「先の見えない人生」であろう。北欧だったら、とりあえず年をとって身寄りがなくても人間らしく生きていける。金がないからと公園に放置されることもないし、ベッドが8床の大部屋に詰め込まれてで人生の最後を迎えることもない。普通に働いて普通の人生を送れば、なんとかなるのである。生活を原因とする自暴自棄にはおそらく到達しえないだろう。
翻ってアメリカ合衆国を見るに、これはもう言うまでもないだろう。下層階級に生まれれば、あるいは中産階級であっても、病気や事故にあえば、マトモな医療も受けられず、金か命かの二者択一を迫られ、毎日を怯えながら過ごすのである。銃があろうがなかろうが、犯罪のネタに事欠かない。
その一方、そういう状態ですぐ手の届くところに銃があれば、簡単に撃ってしまうのもまた現実だろう。銃がなければナイフ、ナイフがなければバール、バールがなければ素手で殴り合いをするのだろうが、それだけ殺人につながる犯罪は減るはずだ。だから対処療法として銃を規制するのは重要だ。だが、それは根本治療ではない。
さて、この日本である。
こういう現実を見れば、ナイフを規制するだけでは似たような事件はまた起こると考えるのが通常の発想だろう。ダガーナイフを規制しても、包丁でだって人は殺せるのだ。
安定した人生を送っていれば決して犯罪になど手を染めないような人でも、そのごく一部は、生活が不安定になれば犯罪へと走るようになる。不安定の度合いが増せば、犯罪に走る人は増える。それは個人の心がけだけではどうしょうもないことだろう。統計的には必ずそうなってしまうのではないか。
とすれば、今回の事件から考えるべきことは、容疑者の特殊性に基づく要因よりも、我々日本社会に住む人間、あるいは彼のような過酷な労働条件のもとで働く人々、等、に普遍的にある要因を探さねばならない。そして、誰もが犯罪など犯さずに済む社会に変えていかなくてはならない。
くれぐれも容疑者を「特殊な人」と決め付けて自分たちには関係ないかのような態度であってはならない(特にジャーナリズムは)。それは、第二、第三の事件を生むだけだ。問題は重層的な要因を含むのであるから、それに相応しい報道をしてほしい。
多くの方が指摘しているように、今回(も)その報道には多くの問題点があると言わざるを得ない。事件の背景について断片的な情報しか明らかになっていない段階でさもわかったかのように言うのは事件の解明の社会的な意味を曇らし大きな問題がある。
例えば、断片的な報道の見出しから、こういうこも言えてしまうだろう。
「「親とうまくいっていない」 加藤容疑者、孤立深める?」(『朝日』6/11 3:08 )
親とうまく行っていないから事件を起こしたんじゃないのか?(そんなヤツはどこにでもいる)
「「仕事でむしゃくしゃ」加藤容疑者、事件前に職場で激高」(『朝日』6/10 11:35)
激高するぐらい仕事にむしゃくしゃしてたからじゃない?(激高までいかなくとも仕事にむしゃくしゃしてるヤツは山ほどいる)
「一昨年、友人らに自殺ほのめかすメール 秋葉原事件」(『朝日』6/10 8:19)
一度でも自殺を臭わすような言動をするくらいだから、自暴自棄になっても不思議じゃないよね?(何年も前の言動が直接関係あるか!)
「「おとなしくて無口」加藤容疑者を知る人々 秋葉原事件」(『朝日』6/9 19:06)
無口なヤツは何をしでかすかわからないよねえ?(じゃあどうすりゃいいのだ!?)
「加藤容疑者「車で多額の借金」、リストラ情報でも不安」(『読売』6/12 3:03)
多額の借金で自暴自棄になったんじゃない?(大勢いるぞ)
スポーツカーなど乗り回してるヤツは殺人したっておかしくないよね?(おかしいおかしい)
リストラに怯えてたらやりかねないよね?(リストラに怯えてる人一体どれだけおんねん)
まあおそらく先の見えない派遣人生に絶望して自暴自棄になった+本人の特性+ナイフに興味が行った、というあたりなのだろうけれども(これも断片的情報からの推測にすぎないけれども)、報道の一部を適当に組み合わせればどんな滅茶苦茶な理屈もつけられてしまうことにメディアの人々はいい加減慎重になるべきなんじゃないだろうか。
さて、対策として早速ナイフが槍玉に上がっているようだ。それはそれとしてやればいいと思うけれども、それだけでは全然解決にならないだろう。ナイフを規制したところで別の凶器に行くだけだからだ。
生活が厳しく、先の人生に展望が持てなければ、誰だっていやになるし、自暴自棄にもなろう。だから、凶器の規制はあくまでも対処療法的なものと心得るべきで、、この手の事件を減らそうと思えば、自暴自棄になる人を減らさなければならない。
それについて興味深いデータがある。
アメリカ合衆国は周知のとおり一般市民の銃の保有率が世界一だ。それに伴って、銃による殺人事件が多い。マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」を挙げるまでもないだろう。そして、銃による殺人を減らすため、銃の規制を求める人々と、全米ライフル協会を中心とする銃を保有する権利を求める人々との間で激しい対立があるのもよく知られるところだ。
さて、銃の保有率の多い国はアメリカ以外ではどこだろうか?
少し前に話題にもなったので御存知の方も多いかもしれない。スイスのジュネーブ高等国際問題研究所(The Graduate Institute of International Studies in Geneva )による小型武器に関するプロジェクト、"Small Arms Survey "2007年版によると、100人当たりの銃を保有している人数は以下のようになっている。
- アメリカ合衆国 90人
- イエメン 61人
- フィンランド 56人
- スイス 46人
- イラク 39人
- セルビア 38人
- フランス 32人
- カナダ 31人
- スウェーデン 31人
- オーストリア 31人
その意味で、生前チャールトン・ヘストンが言い続けた「銃が人を殺すのではない」というのは、その限りにおいては真実であると言わざるを得ない。少なくとも、世界には銃があっても安易に人を殺さない国の人々がいるのだ。
ということは、殺人を減らすには、武器を規制するだけではダメで、もっと根本的な理由を考えなければいけない、ということになる。
そこで、当然考え付くのが、やはり「先の見えない人生」であろう。北欧だったら、とりあえず年をとって身寄りがなくても人間らしく生きていける。金がないからと公園に放置されることもないし、ベッドが8床の大部屋に詰め込まれてで人生の最後を迎えることもない。普通に働いて普通の人生を送れば、なんとかなるのである。生活を原因とする自暴自棄にはおそらく到達しえないだろう。
翻ってアメリカ合衆国を見るに、これはもう言うまでもないだろう。下層階級に生まれれば、あるいは中産階級であっても、病気や事故にあえば、マトモな医療も受けられず、金か命かの二者択一を迫られ、毎日を怯えながら過ごすのである。銃があろうがなかろうが、犯罪のネタに事欠かない。
その一方、そういう状態ですぐ手の届くところに銃があれば、簡単に撃ってしまうのもまた現実だろう。銃がなければナイフ、ナイフがなければバール、バールがなければ素手で殴り合いをするのだろうが、それだけ殺人につながる犯罪は減るはずだ。だから対処療法として銃を規制するのは重要だ。だが、それは根本治療ではない。
さて、この日本である。
こういう現実を見れば、ナイフを規制するだけでは似たような事件はまた起こると考えるのが通常の発想だろう。ダガーナイフを規制しても、包丁でだって人は殺せるのだ。
安定した人生を送っていれば決して犯罪になど手を染めないような人でも、そのごく一部は、生活が不安定になれば犯罪へと走るようになる。不安定の度合いが増せば、犯罪に走る人は増える。それは個人の心がけだけではどうしょうもないことだろう。統計的には必ずそうなってしまうのではないか。
とすれば、今回の事件から考えるべきことは、容疑者の特殊性に基づく要因よりも、我々日本社会に住む人間、あるいは彼のような過酷な労働条件のもとで働く人々、等、に普遍的にある要因を探さねばならない。そして、誰もが犯罪など犯さずに済む社会に変えていかなくてはならない。
くれぐれも容疑者を「特殊な人」と決め付けて自分たちには関係ないかのような態度であってはならない(特にジャーナリズムは)。それは、第二、第三の事件を生むだけだ。問題は重層的な要因を含むのであるから、それに相応しい報道をしてほしい。