『シンガポール華僑粛清』 | ほたるいかの書きつけ

『シンガポール華僑粛清』

シンガポール華僑粛清―日本軍はシンガポールで何をしたのか/林 博史
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 日本軍がマレー半島付近でイギリス軍との戦闘を開始したのは1941年12月8日未明、真珠湾攻撃よりも早かった。シンガポール攻略戦が一段落し、日本が占領を開始した直後の翌年2月、日本軍による華僑「粛清」が発令された。本書は、その「粛清」という名の組織的・計画的大虐殺の詳細を明らかにしたものである。
 山下奉文を司令官とする第25軍は、抗日分子の「絶滅」のための「掃蕩作戦命令」により、2月21~23日の間に掃蕩作戦を実行し、「すべての抗日分子を秘密裏に処分する」こととなった。
 憲兵隊・憲兵補助隊が組織され、中国人男子を呼び集め「検証」を行い、疑わしきは罰すとでも言うかのごとく、次々と殺していった。海岸で殺し、海に流す場合もあれば、穴を掘らせ、その穴の横で日本軍兵士に首を切られて自分が掘った穴に埋められるという場合もあった。
 殺害された人数は、少なくとも5000人(日本軍も認めている数字)、シンガポールでは5万人という数字が一般になっているという。著者は、調査の結果としては、5万人を示唆する資料はなかったと述べているが、
 ただし、念のために述べておくと、シンガポール側が犠牲者数を誇張しているとは私は考えていない。五万人という数字に象徴されるほど、日本軍による粛清が非人道的であり、シンガポールの人々に与えた恐怖と悲しみと衝撃の深さと広さを示しているものであると理解している。その感情と思いを日本人はしっかりと受けとめるべきだろう。被害者側の痛みに思いをいたすことなく、「被害者側が誇張している」と、さも得意気に吹聴する、卑しい人間にだけはなりたくないし、なるべきではない。
とも述べている。

 この粛清が実行された経緯であるが、色々な論点が出されているけれども、シンガポール攻略戦の前から計画されていたことは間違いないようである。つまり占領後の治安情勢から立案されたものではない、ということだ。
 また粛清の残虐性については、当時から、憲兵隊幹部の間でも批判が強かったそうである。

 粛清を主導したと言われているのが参謀の辻政信である。ノモンハンやガダルカナルでも強引な指導を行った人物だそうだ。
 戦後はイギリス軍より戦犯追及を受けるが、敗戦時バンコクにいた辻は僧に変装して中国に渡り、中国国民党の庇護を受けて戦犯追及から逃れた。さらに大本営参謀時代の上司、服部卓四郎がGHQに取り入って庇護を受けていたことから、服部と連絡を取り1948年5月、秘かに日本に戻ってきたとのことである。
 イギリスはその後も追及をしていたが、1949年、辻の追及を断念、GHQ戦犯容疑者逮捕リストからも削除。その後、1952年に石川県から衆議院選に出馬しトップ当選、後、参議院全国区で三位当選した。1961年にラオス訪問中に行方不明となり消息を絶ったそうであるが、このような人物を日本は英雄として扱い、国会議員としたのである。著者の言葉を借りれば、「戦争責任にきちんと向き合おうとしなかった戦後日本を象徴する人物である」。

 なお、1960年代、シンガポールの開発が進むに伴い、大量の遺骨が発見され、シンガポールでは大問題になった。ところが、日本のマスコミは、事実を究明しようという姿勢はなかったらしい。
 例えば『朝日』は「憎しみをあおるな」という記事を出し、被害を小さく見せ、日本軍の「残虐」ぶりを宣伝したてているといって批判した。他紙も同様である。

 東アジアでの加害の歴史はようやく認知を得るようになって来た。しかし、東南アジアやオセアニアでの加害の実体は未だ広く認識されているとは言い難い。体験された方々が生きているうちにしなければならないことは沢山あるだろう。本書はそうした努力の一つの結実であるが、多くの研究者により、さらなる解明を望みたい。

 日本軍は各地で罪もない人々を大量に殺してきた。しかしそのやり方は、多くがまるで野獣のように、その時の気分しだいで勝手気ままに殺人を犯すというものであった(戦場での人間性を失わせる「教育」の仕方については、このエントリ でも触れた)。南京事件における大虐殺も、そのような殺人の大規模な集積と見ることも出来る。
 しかしこのシンガポールにおける華僑粛清の特徴は、それが占領前からの計画的なものだったことにあろう。ナチスを彷彿とさせるような、計画的・組織的大量殺人である。占領に伴う混乱の中での殺人ではない。攻略前に、冷静に練られた方針なのである。その意味で、この事件は深く記憶に刻まれねばならないと思う。