学問の自由
東中野修道・亜細亜大学教授が書いた本で南京事件の「ニセ被害者」と名指しされた夏淑琴さんに名誉毀損で訴えられていた控訴審で、東京高裁は一審判決を支持、東中野氏らに400万円の賠償を命じた。なにはともあれ、妙なことがおきなかったことは喜ばしい。
詳細は、
碧猫さん「南京事件に関する情報メモ・21日分と22日分」 (Gazing at the Celestial Blue )
ni0615さん「東中野教授、2審でも「減罰」なし」 (土俵をまちがえた方々 )
に詳しいのでご参照いただければと思います。
さて、一審判決が出たときから少し気になっていたのだが(このブログはまだ未開設だった)、一審判決で東中野氏はこう評価された。
しかし。
学問の自由を標榜し、言論の自由を謳歌することが求められる大学において、外部から「学問研究の成果というに値しない」と評価されることは、果たして大学にとっていいことなのだろうか?
本来、東中野のような言説については、アカデミズムの内部で徹底的に批判され、恥ずかしくてとても外部には出せないというぐらいになっていなければならないはずだ。厳しい相互批判があればこそ学問も進展するのであり、東中野が大学の教授ポストを占め、恥ずかしげもなく「学問研究」に値しないことを大声で主張する状況は、学問の自由を維持するという点からも決して歓迎されることではないのではないか。亜細亜大学法学部にどういう人々がいて、どういう立場に立っているのかは知らない。しかし、彼を採用した側として、このままでいいのか?という気はする。道義的な問題として。内部での学問的な批判がもっともっと求められると思うのだが(あるのかもしれないが、少なくとも私には見えない。内部的な努力があるのであれば、すみません)。
そう考えると、東中野を嗤ってばかりもいられない、という気がしてくる。学問の名を騙り人々に苦痛を与える「ニセ学者」は、言論において徹底的に批判されなければならない、と思う。
詳細は、
碧猫さん「南京事件に関する情報メモ・21日分と22日分」 (Gazing at the Celestial Blue )
ni0615さん「東中野教授、2審でも「減罰」なし」 (土俵をまちがえた方々 )
に詳しいのでご参照いただければと思います。
さて、一審判決が出たときから少し気になっていたのだが(このブログはまだ未開設だった)、一審判決で東中野氏はこう評価された。
被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く,学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない。(「15年戦争資料 @wiki 夏淑琴さん名誉毀損訴訟」 より抜粋)歴史修正主義者のボロが白日の下にさらけ出された瞬間であり、彼を持ち上げその著作を根拠に妄言を吐いていた人々に一撃を加える判決だった。今現在はどうかわからないが、いっときは彼の本は書店でいくつも平積みにされ、特設コーナーを置く書店も目にした。それを考えると、(通常なら)研究者生命を断つに等しいこの判決はまさに痛快とも言うべきものであった。
しかし。
学問の自由を標榜し、言論の自由を謳歌することが求められる大学において、外部から「学問研究の成果というに値しない」と評価されることは、果たして大学にとっていいことなのだろうか?
本来、東中野のような言説については、アカデミズムの内部で徹底的に批判され、恥ずかしくてとても外部には出せないというぐらいになっていなければならないはずだ。厳しい相互批判があればこそ学問も進展するのであり、東中野が大学の教授ポストを占め、恥ずかしげもなく「学問研究」に値しないことを大声で主張する状況は、学問の自由を維持するという点からも決して歓迎されることではないのではないか。亜細亜大学法学部にどういう人々がいて、どういう立場に立っているのかは知らない。しかし、彼を採用した側として、このままでいいのか?という気はする。道義的な問題として。内部での学問的な批判がもっともっと求められると思うのだが(あるのかもしれないが、少なくとも私には見えない。内部的な努力があるのであれば、すみません)。
そう考えると、東中野を嗤ってばかりもいられない、という気がしてくる。学問の名を騙り人々に苦痛を与える「ニセ学者」は、言論において徹底的に批判されなければならない、と思う。