ウソは一つとは限らない
先ほどのエントリに関連して、前から思っていたことを少しばかり。
よくマスコミを批判するような記事(ブログでも週刊誌でもなんでもいいんですが)に、「だからマスコミは信用できないんだ」みたいな文章が載りますよね。自分でもそういうふうに思うときもある。例えば「あるある大事典」のように、どこかの番組で捏造問題が発覚したとしましょう。すると、おそらく多くの人が「だからマスコミは信用できないんだ」と思うでしょう。
ところが。
これまた多くの人は、きっと、それ以外の番組で流された情報は、漠然と信じちゃうんですよね。積極的に、というわけではなく、真偽について考えることもなく、気づかぬうちに受け入れている。「あるある」でマスコミに不信感を持った人は、「あるある」的な番組は警戒しながら見るでしょう。だけど、そのうち一体どれだけの人が、一見全然関係ないような番組の内容-例えばニュースでもいい-について、懐疑的に見れるでしょうか。
「水伝」でもそうで、明らかに変だよなあ、というところは信じなかったとしても、他のところは信じてしまうかもしれない。本当は間違っているのに。
懐疑的であろうとして、マスコミの流す情報10のうち1つが間違いであることに気づく。それ自体はいい。でも、1つの間違いを見つけたことで安心してしまい、残りの9は無批判に受け入れてしまう。でも9のうち3は間違いかもしれないのだ。
私は、二大政党制だとか、改憲問題だとか、選挙制度だとか、消費税だとか、こういう構造で世間が知らず知らずのうちに誘導されてしまっているような気がして、とても怖い。矢継ぎ早に問題を提示して、どれか一つにしか反応しきれず、他の問題にはついつい流されてしまう、というような。
また、与えられた情報について考えるだけでは本当はいけない。伝えられなかったものはなんなのか。報道されなかったものはなんなのか。そこまで考えないといけないのだけれど、普段はどてもそこまで気を回してられない。
現場の多忙な教師が、「ついつい」子どもに汚い言葉を使わせないようにと思って「水伝」に飛びつくのも似たような構造かな、とも思う。残念ながら、我々は一度にそんなに多くの事柄に対して懐疑的であるのは難しい。
さらに厄介なのは、たとえば「水伝」みたいな問題だったら、間違いといえるかどうか自信がないならば「沈黙」するという解があります。知らないことには下手に口を挟まない。態度を表明しない。これは賢明なやり方でもある。しかし、社会的な問題になると、そうとばかりもいっていられないことも多い。沈黙するということが一つの意思表明となる場合もある。自分が教師だとして、同僚が水伝授業をやっていることを知ってしまったらどうするか。この場合、沈黙は賢明な方法と言えるのか。もっと言えば、選挙で「棄権」という「沈黙」は、棄権した人の意志と関わりなく、次の権力への白紙委任だと取られても仕方がない。そういう意思であることを表明したことになる(選挙の場合は匿名ですが)。つまり己の意思を何らかの形で表明せざるを得ない場合は確実にある。
じゃあどうすればいいんだ、というと、これが難しい。どうしたらいいんでしょうね。知識を蓄え、あらゆる物事に対して考察を加え、自分なりの判断を下す。これはしかし完璧にこなすのは無理ですよね。となると、信頼できる情報源を持つというのが次善の策となるでしょうか。もちろん、信頼してよいかというのも疑わないといけないわけですが。
取り留めのない文章でアレですが、「考える」ってのは難しいなあ、と思います。
よくマスコミを批判するような記事(ブログでも週刊誌でもなんでもいいんですが)に、「だからマスコミは信用できないんだ」みたいな文章が載りますよね。自分でもそういうふうに思うときもある。例えば「あるある大事典」のように、どこかの番組で捏造問題が発覚したとしましょう。すると、おそらく多くの人が「だからマスコミは信用できないんだ」と思うでしょう。
ところが。
これまた多くの人は、きっと、それ以外の番組で流された情報は、漠然と信じちゃうんですよね。積極的に、というわけではなく、真偽について考えることもなく、気づかぬうちに受け入れている。「あるある」でマスコミに不信感を持った人は、「あるある」的な番組は警戒しながら見るでしょう。だけど、そのうち一体どれだけの人が、一見全然関係ないような番組の内容-例えばニュースでもいい-について、懐疑的に見れるでしょうか。
「水伝」でもそうで、明らかに変だよなあ、というところは信じなかったとしても、他のところは信じてしまうかもしれない。本当は間違っているのに。
懐疑的であろうとして、マスコミの流す情報10のうち1つが間違いであることに気づく。それ自体はいい。でも、1つの間違いを見つけたことで安心してしまい、残りの9は無批判に受け入れてしまう。でも9のうち3は間違いかもしれないのだ。
私は、二大政党制だとか、改憲問題だとか、選挙制度だとか、消費税だとか、こういう構造で世間が知らず知らずのうちに誘導されてしまっているような気がして、とても怖い。矢継ぎ早に問題を提示して、どれか一つにしか反応しきれず、他の問題にはついつい流されてしまう、というような。
また、与えられた情報について考えるだけでは本当はいけない。伝えられなかったものはなんなのか。報道されなかったものはなんなのか。そこまで考えないといけないのだけれど、普段はどてもそこまで気を回してられない。
現場の多忙な教師が、「ついつい」子どもに汚い言葉を使わせないようにと思って「水伝」に飛びつくのも似たような構造かな、とも思う。残念ながら、我々は一度にそんなに多くの事柄に対して懐疑的であるのは難しい。
さらに厄介なのは、たとえば「水伝」みたいな問題だったら、間違いといえるかどうか自信がないならば「沈黙」するという解があります。知らないことには下手に口を挟まない。態度を表明しない。これは賢明なやり方でもある。しかし、社会的な問題になると、そうとばかりもいっていられないことも多い。沈黙するということが一つの意思表明となる場合もある。自分が教師だとして、同僚が水伝授業をやっていることを知ってしまったらどうするか。この場合、沈黙は賢明な方法と言えるのか。もっと言えば、選挙で「棄権」という「沈黙」は、棄権した人の意志と関わりなく、次の権力への白紙委任だと取られても仕方がない。そういう意思であることを表明したことになる(選挙の場合は匿名ですが)。つまり己の意思を何らかの形で表明せざるを得ない場合は確実にある。
じゃあどうすればいいんだ、というと、これが難しい。どうしたらいいんでしょうね。知識を蓄え、あらゆる物事に対して考察を加え、自分なりの判断を下す。これはしかし完璧にこなすのは無理ですよね。となると、信頼できる情報源を持つというのが次善の策となるでしょうか。もちろん、信頼してよいかというのも疑わないといけないわけですが。
取り留めのない文章でアレですが、「考える」ってのは難しいなあ、と思います。