江原啓之から統一協会への道
「統一協会 洗脳教材にTV番組利用 “占い・霊界”で引き込む」
(『しんぶん赤旗』)
ちょっと古い記事(2007/4/15)だが、どこかで紹介されていたのをメモしておいたのを思い出したのでここに挙げておく(どこで見たか忘れました。すいません)。
内容は、要するに統一協会が杉並で洗脳教材として「天国からの手紙」を使っていたというもの。江原と統一協会の間には直接の関係はないのだろうが、思想的に親和性を持っており、洗脳に有効という判断だったのだろう。
ここで踏まえておくべきことは、勿論「スピリチュアル」がオカルト・カルトへの一里塚であるということなのだが、もう一つ、スピリチュアルと統一協会に代表される明確に反社会的なカルト集団とは確かに違うということがある。おそらく、テレビや本で江原に感化され、「本当かどうかはわからないけど、なんかいい話しだし、信じたいよね」と思っている人々は、江原と統一協会とは「全く別物」と思っていることだろう。江原自身だっておそらくそう思っているに違いない。しかし江原の思想をつきつめていけば、統一協会などのカルト思想と同様のものになっていく。ソフトなスピリチュアルとハードなカルトの間には、反社会的な直接行動をするかどうかという点での違い「しか」ないのだ。無論、その違いが犯罪かどうかの境目にもなるのだから、批判するにしてもその違いを押さえておく事は重要だ。しかし、思想的には本質的な違いはないことにも注目せねばなるまい。我々は、物事というものは連続と不連続が重層的に折り重なっているものだと言うことを忘れてはならないだろう。
なお、「統一協会という言葉について」 (紀藤正樹弁護士のブログ)に端的に解説されているが、ここでは統一「教会」ではなく統一「協会」と書きたい。統一協会側は「教会」と書かせたいようだしマスコミもそれに従っているが、正式名称から考えても「協会」だろう。「教会」と書くのは悪事を糊塗しようとする意図を感じてしまうからだ。
***
このブログでは、「ニセ科学」という言葉を広い意味で捉え、オカルトに対しても使うつもりです。一部でオカルトを含めるかどうかで議論にもなっていたと思いますが、私は、主張する本人が科学にのっとっていると主張するかどうかは瑣末な問題だと思っています(勿論、科学であると主張してくれたほうが、「いやそれ間違ってるから」と言いやすいわけですが)。主張の内容が、科学と矛盾するものであれば、それはニセ科学にここでは含めたい。非科学であっても、科学と並存するものであれば、そういうものとして受け入れることも可能です。しかし、例えば「科学的には生まれ変わりはないと言うのでしょうが、それはそれとして、やっぱり私は生まれ変わりはあるのだと思います」という主張はどうでしょうか。生まれ変わりはあるのかどうか、という事実関係についての言明である以上、それは科学的に検証されうるということになります。だから、「科学とは思ってないから、事実であってもいいじゃない」というのは通らない話です。
これもある意味連続と不連続が絡まったものだと言えるでしょう。「狭義のニセ科学」、あるいは私の言い方だと「ハードなニセ科学」(「ハードSF」的な意味での使い方ですが)と「オカルト」は、たしかに主張する人が科学であるという自覚があるかどうかという点については異なるのですが、言っている内容についてはどちらも科学的検証の俎上に乗りうるものであり、その意味で本質的な違いはありません。
というわけで、このブログでは「ニセ科学」という言葉を広く解釈し、科学的知見と矛盾するものはニセ科学の範疇に含めて議論していきたいと思っています。
ちょっと古い記事(2007/4/15)だが、どこかで紹介されていたのをメモしておいたのを思い出したのでここに挙げておく(どこで見たか忘れました。すいません)。
内容は、要するに統一協会が杉並で洗脳教材として「天国からの手紙」を使っていたというもの。江原と統一協会の間には直接の関係はないのだろうが、思想的に親和性を持っており、洗脳に有効という判断だったのだろう。
ここで踏まえておくべきことは、勿論「スピリチュアル」がオカルト・カルトへの一里塚であるということなのだが、もう一つ、スピリチュアルと統一協会に代表される明確に反社会的なカルト集団とは確かに違うということがある。おそらく、テレビや本で江原に感化され、「本当かどうかはわからないけど、なんかいい話しだし、信じたいよね」と思っている人々は、江原と統一協会とは「全く別物」と思っていることだろう。江原自身だっておそらくそう思っているに違いない。しかし江原の思想をつきつめていけば、統一協会などのカルト思想と同様のものになっていく。ソフトなスピリチュアルとハードなカルトの間には、反社会的な直接行動をするかどうかという点での違い「しか」ないのだ。無論、その違いが犯罪かどうかの境目にもなるのだから、批判するにしてもその違いを押さえておく事は重要だ。しかし、思想的には本質的な違いはないことにも注目せねばなるまい。我々は、物事というものは連続と不連続が重層的に折り重なっているものだと言うことを忘れてはならないだろう。
なお、「統一協会という言葉について」 (紀藤正樹弁護士のブログ)に端的に解説されているが、ここでは統一「教会」ではなく統一「協会」と書きたい。統一協会側は「教会」と書かせたいようだしマスコミもそれに従っているが、正式名称から考えても「協会」だろう。「教会」と書くのは悪事を糊塗しようとする意図を感じてしまうからだ。
***
このブログでは、「ニセ科学」という言葉を広い意味で捉え、オカルトに対しても使うつもりです。一部でオカルトを含めるかどうかで議論にもなっていたと思いますが、私は、主張する本人が科学にのっとっていると主張するかどうかは瑣末な問題だと思っています(勿論、科学であると主張してくれたほうが、「いやそれ間違ってるから」と言いやすいわけですが)。主張の内容が、科学と矛盾するものであれば、それはニセ科学にここでは含めたい。非科学であっても、科学と並存するものであれば、そういうものとして受け入れることも可能です。しかし、例えば「科学的には生まれ変わりはないと言うのでしょうが、それはそれとして、やっぱり私は生まれ変わりはあるのだと思います」という主張はどうでしょうか。生まれ変わりはあるのかどうか、という事実関係についての言明である以上、それは科学的に検証されうるということになります。だから、「科学とは思ってないから、事実であってもいいじゃない」というのは通らない話です。
これもある意味連続と不連続が絡まったものだと言えるでしょう。「狭義のニセ科学」、あるいは私の言い方だと「ハードなニセ科学」(「ハードSF」的な意味での使い方ですが)と「オカルト」は、たしかに主張する人が科学であるという自覚があるかどうかという点については異なるのですが、言っている内容についてはどちらも科学的検証の俎上に乗りうるものであり、その意味で本質的な違いはありません。
というわけで、このブログでは「ニセ科学」という言葉を広く解釈し、科学的知見と矛盾するものはニセ科学の範疇に含めて議論していきたいと思っています。