化学療法の朝は早い。

小雨が降りしきるなか、本郷にあるT病院に向け私は家を出た。肌寒い空気がもうじき夏である事を忘れさせる。今年は梅雨が長そうだ。

ここ半年で一番の速さで私は病院に到着し、採血ルームにダッシュで向かう。疲れるから走ってはいないが心はもう採血台だ。ここで出遅れるとケモが始まらない。

1分1秒でも、早く。そして、強く。


血液検査結果次第ではケモ中止も勿論考えられる。数字が全てだ 。だがそこは、テイクイットイージー。考える前にムーブ。
気合いがあれば、それでいい。


採血ルームのある2階までは階段でも行ける。だがしかし、ここで焦るのは素人だ。勝負の前に無駄に体力を削るのは愚者の所業。急いては事を仕損じる。慌てる乞食は貰いが少ないなどという諺もある。常に心の鍛錬を怠らず、『千里の道も一歩から』という地道で謙虚な心を忘れてはいけない。時にはチャンスを為に遠回りをするといった心の余裕が必要になる。さながら勝利を掴む為の必須アイテム、といった所だろうか。


いつも心にゆとりを。(参考文献民明書房)


以前行われていた日本における国策、ゆとり教育。人間らしさ、個性の尊重などが骨子だったゆとり教育。しかし突如、円周率を3にするとの発表。日本国民に衝撃が走った。理由はなぜなのか、そんな事をしたら大変なことになる...。おそらく誰もが思ったことだろう。なぜなら3と3.14では実際かなりの差が生じる。四捨五入してはいけなかった、それなのになぜ...私は考えたところで出ることは無い問題に着いて深く思考しながら気がつくと採血ルームに到着していた。
ゴールだ。長い戦いは、終わりを告げようとしていた。



その時だった。

稲妻のような衝撃が走る。


目の前に広がる戦慄の光景。びっしりと座っている爺婆達。なんと待合には既に沢山の人が並んでいたのだ、そして、それらはほぼ高齢者と言っても過言ではない。まさか一番は無くとも待ち人数一桁だと思っていた私は狼狽した。それと共に、抱いていた甘い考えは砂の城のようにもろく崩れさっていった。いや、打ち砕かれたと言うべきか。


想定の範囲内だ。だが、まさか、こんなに?
皆考えている事は同じか。侮った。



交錯する思い。敵は予想以上に手強く、一枚も二枚も上手だった。私は高齢者の朝の早さを計算し忘れるという痛恨の戦略ミスを犯していたのだ。あまりに早い爺婆の行動時間帯。さすが戦後の日本を支えた爺婆、もとい高齢者の皆さんだ。いやはや恐れ入った。圧倒的な力の差に感服。大和魂ここにあり、正に天晴れといった感じである。私の負けだ。 


T大学附属病院。ここで行うケモは6回目の今日で最後だ。有終の美こそ飾れなかったが、得たものは計り知れない。この病院に来る度に私は試され続けてきた。貰えない処方箋。入っていない検査のオーダー。予約ミスで入院が出来ないこともあった。ハイパーサーミアの紹介状も未だに貰えていないが、もうそれは諦めた。闘病と時を同じくして上がり続けるハードルとも戦い続けてきた日々が、走馬灯のように思い出が駆け巡る。


悪いのは全て私。日日是修行


青天井のハードルを、私はいつだって越えてきたじゃないか。ゴールだといつから錯覚してしまったのだろう。全てはここから始まるんだ!ゆでたまご先生の次回作にご期待ください!


己の奢りが招いた事態を、何かや誰かのせいにする事、それは成長する事をやめてしまうということと同義である。あくまで自分の怠り、心の弱さが招く悲劇。人としての成長は、常に己の心の戦いであり、それをやめた時成長もまた止まる。進み続けることこそが真実一路なのである。 

この半年、自分はなにを学んできたのだろう。まだまだ青二才。気持ちだけ鶏だけの、黄色いカラーひよこだ。だが。ひよこで何が悪い。進む力だけが私の全てじゃないか。初心を忘れた民族に未来はない。


乱れ掛けた心をゆっくりと落ち着かせ、すぅっと目を閉じてみる。


広がる草原のイメージは、この前大草原の小さな家を見たからだろうか。


一から、やり直そう。


心に溢れる熱い思い。深い反省と、先達への尊敬の念。勝負には負けたかもしれないが、かけがえのないものを得ることが出来たではないか。

なんと気持ちがいいのだろう。淀みかけた気分は、澄み渡った五月の青空のように清々しく、そして晴れやかであった。


.....おはようございます。


菩薩のように微笑みながら、受付の女性に診察用のファイル渡す。もうずっと我慢してきたトイレもいよいよ限界だ。とにかく早くして欲しい。そんな気持ちを堪えながら女性から奪うように受け取った採血の番号札を見て、私は衝撃を受けた。


.......2桁、番台....?


早い。一瞬目を疑ったが、いつもはとうに100番など越えている採血の待ち番号は50番以内。未来への切符が、そこあった。早くトイレに行かなければ。

瞬間、熱いものが込み上げる。込み上げてはいけないものも込み上げてくる。もう残された時間はあと僅かだ。


震える拳を握りしめ、早足でトイレに向かう。

間に合わないかもしれない。弱気な自分の心を振り切り、トイレのドアを開ける。瞬間不整脈が走った気がした。閉まっている?まさか?

しかし、そんな不安を打ち消すかのようにトイレは全て空室だった。神はいたのだ。

間に合った....安堵の溜息をつきながら便座に座る。雨の日はなぜかトイレが特に近い。座った、その瞬間、まるで氷が解けるように張り詰めた心は緩み心地よい空気が私を包んだ。

そう、努力は決して無駄ではなかったのだ。

改めて、番号札をまじまじと見てみた。見たこともない早い受付番号。嬉しい。歓喜に高鳴る胸の鼓動。これなら9時半スタートも夢ではないかもしれない....期待と希望。挑戦し続ける心の大切さを、一度もくぐった事は無いが、赤門にそう教えて貰った気がする。グッドフィーリング。本当にありがとう。カムサハムニダ。


ひとまず、今日一日の出来としては及第点ではないだろうか。意気揚々と採血台へ向かう私は子供じみていただろうか。こんな気分は中学校の卒業式以来だ。


さあ、思う存分。とってくれ。

採血台に差し出す腕。頼まれてもいないのに腕に貼られたカイロは、今までの学習の成果だ。とにかく出にくい血管、失敗され続けるうちに自分で採血する場所を指定する事も覚えた。

いつだって攻める姿勢が大切だ。何時背後を狙われるか分からない。心身共に万全の準備で何事にも対応してこそ、生き馬の目を抜くようなこの世の中を渡っていける。


T大学鉄門に鍛えられた患者力。日本が誇る最高学府、T大学の附属病院。その力は、伊達ではない。




そもそもなぜ私が高みを目指したかを、説明しよう。実は説明するまでもないが何事もスタートが早ければ、その分終わりも早い。帰宅時間が一時間違えば、一時間早くゲームが出来る。なんだ、それだけかと思う読者の方も多くおられるだろう。だが、理由はそれだけだ。否、それだけで何が悪いのか。草薙だって裸にもなったではないか。シンプルイズベスト。ゴーイングマイウェイ。お分かり頂けただろうか。

元来、私は新し物好きかつ飽き性である。故に中途半端にゲームを投げ出す事が多い。簡単に言えばクリア寸前でやめてしまうのだ。これを私は85%の法則と呼んでいる。(残りの5%でED。更に残りの10%はやり込み要素である)


今日こそクリア前で放置されているキングダムハーツを終わらせたい。


情熱とはかくも人を動かすものなのである。投げ出し続けてきたが、今のこの気持ちがあれば、面倒臭いだけのグミシップ制作作業やワールドマップの3D酔いによるプレイ時間制限、そして理不尽に強い中ボスと互角に戦えるだろう。

今日の全ては3回程殺され完全に削がれたやる気と折れた心を、もう一度取り戻す為への布石。ファイト!私。グミシップなんかもう怖くない。世界を救おう。









しかし、その時の私はまさかの採血連続失敗という事態が待っているとは心にも思って居なかった。

はい少しチクッとしますねー

優しい声とともに始まった採血、が、しかし、その後一瞬にして漂う緊張感。恐る恐る手元を見ると血が明らかに少ない。流れてこないのだ。このままだと、固まってしまう。気がつけば周りには二、三人と集まってきた看護師が心配そうにこちらを見ている。美人看護師さんの、みるみる変わっていく顔つきに見かねた看護師さんが遂に選手交代。険しい顔で慎重に慎重に血管を追っていく。匠....そんな言葉が私の脳裏によぎる。だがしかし、そんな期待を打ち砕く私の腕。失敗が続いた。痛いですよね?痛いですよね?そう聞かれて痛いからやめてくれとチキンの私が言えるだろうか。顔で笑って心で泣いて。これでいい。

選手交代はその後も続きその数は実に5人にも及んだ。

「これはダメだわ、ないもん血管」

耳を塞ぎたくなる様な言葉を投げかけてくるのは、顔見知りのベテラン看護師さん。神の手を持つ彼女を持ってしてもダメなのか...。絶望が私の心を支配した。

ホットおしぼりなどでは埒が明かないと、別室でシャワーを掛けられ私達の必死の戦いは続いた。その時間、40分。温かさが気持ち良くてつい反対の右手までお湯に浸してしまい、そっちは良いからと看護師に諌められる。

しかし、まさか採血ルームで小一時間過ごす事になろうとは。

朝一で乗り込んできた意味とは一体なんだったのであろうか。Soulの抜け殻のようになった私は、力なく椅子に座っていた。ここからの挽回は厳しいだろう...EDはお預けだが、仕方ない。


この状況下においても、私は決して不屈の闘志を忘れる事は無い。砕け散った心の欠片を拾い集め、私の明日への旅はこれからも続いていくのだ。戦場が私を待っている。

化学療法室へ。突き進むための勇気はもう心の中に確かにある。

俺たちの戦いはこれからだ。そう今始まったばかりなんだ!

ゴーホーム。そしてサンキュー東大病院。
永遠にアディダス、   ミ、アモーレ......



~完〜



追記
T病院ラストギグスという事で、現在ブログ休止中ではありますが特別企画として投稿させて頂きました。文章をしたためている時につい気持ちよくゾーンに入ってしまう事ってありますよね?届けこの熱い思い!とばかりに、ついいつもより少し長めの文章になってしまい反省反省😅  知人友人からも続々と「なげぇよ」「つか、ながいんだけど」「まじで長すぎて最後まで読めなかった」など心無い 心温まるメッセージが届いており嬉しい限りです爆笑

コメ欄は閉鎖したままではございますが、また駄文投下させて頂こうと思っておりますので、その時はよろしくお願いいたします

肌寒い日が続きますが皆様、良い夏をお過ごしくださいね!アディオス