今日は震災から1週間経ったんだね。

なんか、あまりの激動な1週間で・・・・・

考えてみれば・・・そういえばこの地震が起きて
今年初めて、ブログを更新したような気がします。

そう・・・
あれは先週の金曜日、会社で仕事をしていて
「もう少しで3時の休憩だ!」
そんな感じで、工場のクレーンで機材を釣りながら
移動していた時だった。
同僚が、「あれっ?地震じゃね?揺れてない?」
って言葉を言い、「ん?ゆれてる?」って思った瞬間でした。

強烈なビッグウェーブのような地震がやってきた。

オイラは、「これはデカイ!!!」
と思いつつ、クレーンで釣ってる機材を下ろそうかと
していたら一気に主電源が落ち、釣られた機材が
ぶ~~らぶ~~らしてるのをそのままにして、大きく
揺れまくる工場の中で、上の照明が落ちてこないのを
確認しながら、どこか冷静にブレーカーを落としていました。

今考えても、どうしてあんなに冷静だったのだろう?

揺れがおさまってきたなってのを感じてから、工場の外へ。
そしたらもう工場のみんなは入り口に集合していました。

気が付いたら足がフラフラ、いつのまにかペタンとその場に
座り込んでいたオイラがいました。

しばらく立てなかった。でもなんかわからないけど
「今の凄くね?」「やばくね?」とか言ってるみんなを
見て少し笑っていたオイラでした。

先輩に「いつまで座ってんの?w」とか言われて、
すぐさま立とうとしてもまだフラフラ。

次の瞬間「かみさんは大丈夫か?」という思いにかられ
携帯に電話しまくりでした。でも繋がらない。
他のみんなもどこかに電話してるけど繋がらない。

仕方ないので、情報が知りたくツイッターを見た。
予想に反してすぐに繋がった。
「東北だ!」「震度6だって!」とかいっぱいだった。
しばらく見てると、
「お台場が燃えてる」と写真付きのツイートを見て驚愕。
「千葉のコンビナート火災」とかも写真付き。
「誰か助けて・・・」とかのデマもいっぱい出てきた。
ここの震度は?わからない。そんな時また・・・・

新たな更に大きな地震がやってきた!

みんなバラバラにあっちに走りこっちに走り・・・
オイラと工場長は何故か上の電柱・電線を見ながらその場で
すぐ逃げられる体制をしながら立っていた。

どこまでのんきなのだろう・・・

とか自分に笑ってるのも余裕だったのかな?
揺れが凄すぎてあきれてたのかな?

直後にもう一度かみさんに電話。繋がった!!
「大丈夫だよ!」ホッとした。ちなみにau。
こんな時やっぱり強い!
他のみんなドコモ・ソフバンは全然繋がらなかった。

1回目は宮城沖、2回目は茨城沖が震源地。
震度6弱・・・・・その数字を見た時、恐怖がやっときた。

パートのおばちゃんたちと、実家が海沿いにある後輩を
先に帰宅させた。その時は「津波」なんて考えもしなかった。

アパート、オイラの実家、かみさんの実家は大丈夫か?

午後5時ちょい前、先に上がらせてもらった。
まずはオイラの実家へ。
国道51号上り線が大渋滞。信号は点いてない。
オイラは逆方面だったのでスイスイと実家へ。

母は生きていた。家の外観損傷は無いかを確認して、
今度はアパートへ。その頃かみさんから電話。
「実家見てから帰る」オイラは堤防沿いを走る。
堤防がそこらじゅう割れ目だらけ。
暗くなってきて尚更恐怖感が倍増する。

アパート着。部屋を確認、電気が点かない、水が出ない。
戸締りをし、ライト付き手巻きラジオを用意した。
ライトを部屋の天井に当てながら、ラジオを1人聴く。

暗い・・・・寒い・・・・・寂しい・・・・・

東北の被害情報を聞きながら、かみさんの帰りを待っていた。

かみさん帰宅。すぐさま抱き合う。
「良かった無事で」

それから2日間電気が開通するまで、サイリウムを点けたり、
家で2人ラジオを聞きながら、過ごしていた。

地元が酷い状態なのを知ったのは日曜日の3時過ぎに
買い物に行った時だった。

電気が夕方復旧。震災後初めてTVを見た。
ラジオだけではわからない、あまりの悲惨な東北の津波による
街の崩壊・壊滅の映像に言葉を失った。


・・・・・・こんな感じの先週末でした。

ホントにあっという間の1週間。

今回の地震で亡くなられた方の数は戦後最大になってしまったようです。
津波の怖さを何よりも心に刻み込まれた今回の地震。

東北と関東の被災者の皆さんにお見舞いを申し上げると共に、
亡くなられた方へのご冥福をお祈りいたします。

2011年3月11日 PM2時46分

この日を忘れる事は無いでしょう。