“学習性無気力(learned helplessness)”、これはかつてセリグマンという心理学者が行ったある実験(ネズミを使った実験)に由来する心理状態をいう。
それは簡単にいえば「いくらやっても自分はだめだ」ということを学習してしまうという状態を表す。
つまり、解決可能な場面でも自ら反応・対処しなくなるという状態をいう。
これを教育現場において当てはめると納得のいくものがある。
それは、
「勉強なんかしたくない。嫌いな教科なんて見たくもない。強制されたって勉強してたまるか」
という一見すれば、ただの我が儘(ワガママ)に映る生徒がいるという事実である。
これは学校のみならず、学習塾に通う児童・生徒の中にも存在し、
保護者が良かれと思って子供につけた家庭教師の指導にも耳を貸さない“やる気の無い”児童や生徒のことでもある。
LD(学習障害)やADHD(注意欠陥障害)などの症状を持たないごく普通の児童や生徒が“学習性無気力”に陥っているのがその大半を占めている。
それらに共通するのが、
保護者たちの“諦め”とも言える「この子は言っても聞かない。機嫌を損ねると何をするか分からない。」という態度だ。
これは“自分の子供の躾すらできない”ということを表している。
親が子に遠慮してどうする?
幼い頃より「『やっていい事』と『悪い事』の区別すらつけさせてこなかった」というツケがその親に回ってきたと言える。
そして「学校が悪い!」、「教師の教え方が悪い!」、「付き合っている友達が悪い!」と他人のせいにしたがるのがそれらの親たちである(←いわゆる『モンスターペアレント』だ)。
こういうモンスターペアレントは何かといえばすぐにPTA役員会で吊るしあげにし、
果ては教育委員会にまで悪口を言う。
親も親なら子も子で、一言でも注意しようものなら「体罰だ」と叫んでは大騒ぎし、教師を貶める。
もはや「世の中の常識すら、その頭には無い」と言っても間違いではない。
だから、今、教育の現場がおかしくなっている。
保護者が怖くて児童や生徒を怒ることができない教師が増加し、
注意できない教師を尻目に児童・生徒は益々増長する。
さらにもっと悪いことにそれらの状況をマスコミは面白いように書きたてる。
何か間違っていないか?
怒りの矛先を間違えていないか?
無気力のまま過ごすのは確かに楽だろう。
親が生きているうちは無気力で過ごせばいいだろう。
子供のうちは親さえいれば食うには困らない。
だが、その親がいなくなった時はどうする?
自分で働いて稼いで食うしかない。
無気力でろくに勉強もせずに育った人間を雇うほど世の中は甘くない
知識がなければ馬鹿にされ、騙されて痛い目に遭う。
『勉強は自分が生きるためにするもの』である。
その勉強の“基本”を学ぶ場所が『学校』であり、
学校で集団で学ぶことによって、
実社会に出た時のための人間関係を築く練習をし、
働いた分の給料を誤魔化されないように計算ができるように算数・数学を学び、
生きるために社会の仕組み知るために社会科を学び、
身の回りの自然現象、科学技術等がどのように成り立っているかを知るために理科を学び、
多くの人間とコミュニケーションをとるために国語を学び、
違う国々の人間とコミュニケーションをとるために語学を学び、
将来、独立した時のために炊事、洗濯、家事全般ができるように家庭科を学び、
健康的な身体をつくるために体育を学ぶ。
それが『学校』だ。
一方、礼儀作法や善悪の区別などの躾(しつけ)は、児童・生徒それぞれの保護者が行うべきことだ。
最近では、そういった躾さえ学校に丸投げしている勘違い保護者がいるがな(怒)
そういう勘違い保護者に限って、「やればできる」と子供に教える。
すると、子供は「やればいつだって(勉強なんて)簡単にできるんだ」と勘違いして、全く勉強しなくなる。
勉強しないから、学校での授業が「何をやっているのか」さえ理解できなくなる↓
理解できないから学校の授業が面白くない
↓
授業が面白くないから、真面目に聞く気が起きない=やる気がない
↓
「やればいつだってできるんだ」でも、勉強ってどうやるんだっけ?
↓
勉強のしかたが分からない↓
成績低下
↓
教師や保護者から叱られる↓
そんなこと言われたって、勉強したことないし…。
どうせ「いくらやってもダメなんだ」
↑
という無気力スパイラルに陥る。
これが学習性無気力(learned helplessness)だ。
こうなったら、その子が「どのあたり(各教科のどの単元)までなら授業が理解できていたか?」を聞き出し、
その単元から復習するしかない。
なぜなら、「勉強は『積み重ね』が大事」だからである。
時間の無駄に感じても、分かるところまで戻って学習しなければ、ますます理解できなくなる。
勉強とはそんなモノだ。
では、「子供には何と言って勉強させるのか?」といえば、
「勉強は『やらないからできない』。まずは今日学校の授業で習ったことからもう一度復習し、明日授業で習うことを自分だけの力で予習してみろ。
ただ、教科書を読むだけでもかまわないから、そこから始めてみろ」と言い聞かせることだ。
『無知は無力となり、知識は武器』となる。
勉強するのは自分自身のためであり、将来、他人よりもいい暮らしをして、他人よりも美味いものを食べるためだ。
それが現実。
今、社会人の方なら分かりますよね?
それは簡単にいえば「いくらやっても自分はだめだ」ということを学習してしまうという状態を表す。
つまり、解決可能な場面でも自ら反応・対処しなくなるという状態をいう。
これを教育現場において当てはめると納得のいくものがある。
それは、
「勉強なんかしたくない。嫌いな教科なんて見たくもない。強制されたって勉強してたまるか」
という一見すれば、ただの我が儘(ワガママ)に映る生徒がいるという事実である。
これは学校のみならず、学習塾に通う児童・生徒の中にも存在し、
保護者が良かれと思って子供につけた家庭教師の指導にも耳を貸さない“やる気の無い”児童や生徒のことでもある。
LD(学習障害)やADHD(注意欠陥障害)などの症状を持たないごく普通の児童や生徒が“学習性無気力”に陥っているのがその大半を占めている。
それらに共通するのが、
保護者たちの“諦め”とも言える「この子は言っても聞かない。機嫌を損ねると何をするか分からない。」という態度だ。
これは“自分の子供の躾すらできない”ということを表している。
親が子に遠慮してどうする?
幼い頃より「『やっていい事』と『悪い事』の区別すらつけさせてこなかった」というツケがその親に回ってきたと言える。
そして「学校が悪い!」、「教師の教え方が悪い!」、「付き合っている友達が悪い!」と他人のせいにしたがるのがそれらの親たちである(←いわゆる『モンスターペアレント』だ)。
こういうモンスターペアレントは何かといえばすぐにPTA役員会で吊るしあげにし、
果ては教育委員会にまで悪口を言う。
親も親なら子も子で、一言でも注意しようものなら「体罰だ」と叫んでは大騒ぎし、教師を貶める。
もはや「世の中の常識すら、その頭には無い」と言っても間違いではない。
だから、今、教育の現場がおかしくなっている。
保護者が怖くて児童や生徒を怒ることができない教師が増加し、
注意できない教師を尻目に児童・生徒は益々増長する。
さらにもっと悪いことにそれらの状況をマスコミは面白いように書きたてる。
何か間違っていないか?
怒りの矛先を間違えていないか?
無気力のまま過ごすのは確かに楽だろう。
親が生きているうちは無気力で過ごせばいいだろう。
子供のうちは親さえいれば食うには困らない。
だが、その親がいなくなった時はどうする?
自分で働いて稼いで食うしかない。
無気力でろくに勉強もせずに育った人間を雇うほど世の中は甘くない
知識がなければ馬鹿にされ、騙されて痛い目に遭う。
『勉強は自分が生きるためにするもの』である。
その勉強の“基本”を学ぶ場所が『学校』であり、
学校で集団で学ぶことによって、
実社会に出た時のための人間関係を築く練習をし、
働いた分の給料を誤魔化されないように計算ができるように算数・数学を学び、
生きるために社会の仕組み知るために社会科を学び、
身の回りの自然現象、科学技術等がどのように成り立っているかを知るために理科を学び、
多くの人間とコミュニケーションをとるために国語を学び、
違う国々の人間とコミュニケーションをとるために語学を学び、
将来、独立した時のために炊事、洗濯、家事全般ができるように家庭科を学び、
健康的な身体をつくるために体育を学ぶ。
それが『学校』だ。
一方、礼儀作法や善悪の区別などの躾(しつけ)は、児童・生徒それぞれの保護者が行うべきことだ。
最近では、そういった躾さえ学校に丸投げしている勘違い保護者がいるがな(怒)
そういう勘違い保護者に限って、「やればできる」と子供に教える。
すると、子供は「やればいつだって(勉強なんて)簡単にできるんだ」と勘違いして、全く勉強しなくなる。
勉強しないから、学校での授業が「何をやっているのか」さえ理解できなくなる↓
理解できないから学校の授業が面白くない
↓
授業が面白くないから、真面目に聞く気が起きない=やる気がない
↓
「やればいつだってできるんだ」でも、勉強ってどうやるんだっけ?
↓
勉強のしかたが分からない↓
成績低下
↓
教師や保護者から叱られる↓
そんなこと言われたって、勉強したことないし…。
どうせ「いくらやってもダメなんだ」
↑
という無気力スパイラルに陥る。
これが学習性無気力(learned helplessness)だ。
こうなったら、その子が「どのあたり(各教科のどの単元)までなら授業が理解できていたか?」を聞き出し、
その単元から復習するしかない。
なぜなら、「勉強は『積み重ね』が大事」だからである。
時間の無駄に感じても、分かるところまで戻って学習しなければ、ますます理解できなくなる。
勉強とはそんなモノだ。
では、「子供には何と言って勉強させるのか?」といえば、
「勉強は『やらないからできない』。まずは今日学校の授業で習ったことからもう一度復習し、明日授業で習うことを自分だけの力で予習してみろ。
ただ、教科書を読むだけでもかまわないから、そこから始めてみろ」と言い聞かせることだ。
『無知は無力となり、知識は武器』となる。
勉強するのは自分自身のためであり、将来、他人よりもいい暮らしをして、他人よりも美味いものを食べるためだ。
それが現実。
今、社会人の方なら分かりますよね?