『戦国武将 永眠の地』 第2弾で取り上げるのは、忍者で最も有名な人物。


そう、服部半蔵 です。



天正10年(西暦1582年)6月、織田信長が本能寺で討たれた際、徳川家康は京都や堺を見物していた最中であったため、敵陣の中に孤立状態となってしまう事態に陥った。


その危機を救ったのが、服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)だった。


半蔵は伊賀者200人とともに伊賀越えを果たし、無事に三河まで家康を送り届けることに成功した。


これによって、家康が江戸幕府を開いた折には、与力30騎、伊賀衆200人を付属され、同心に取り立てられ、加えて、8000石を領した。


これは忍びとしては非常に珍しいことだ。


元来、忍びは主に仕えたとしても、領地を承ることはない。


なぜなら、忍びは“里”と称される隠れ里を拠点とし、命をおびた時だけひそかに登城し、主君直属の配下の者から命令の内容を聞き、活動する。


実際に活動するのは、下忍と呼ばれる忍びである。


忍びは大きく分けて、上忍、中忍、下忍、という3つに身分が分かれており、諜報活動や破壊工作、暗殺を実行するのは専ら下忍の役目なのである。


下忍の中には下忍を束ねる“下忍頭”がおり、工事現場でいうところの現場監督の役目を果たす。


さらにその上に中忍が位置し、中忍の中にも頭(かしら)がいるのである。


伊賀においては上忍は、服部半蔵、楠正成、百地三太夫等がおり、伊賀の里の中においてそれぞれの一族を束ね、軍団として組織する。


また、下忍には各地の城下町や農村などに潜入する専門の者たちがおり、秘密裏に情報を取集するのである。



ちなみに、忍者という呼称は、昭和初期に書かれた少年向けの時代小説によって広められた造語だ。


本当は、忍び、乱派(らっぱ)、透派(すっぱ)などと地方によって様々な呼び名がある。


加えて、テレビや映画、漫画に描かれているように、背中に刀を斜めに背負って活動するようなことはしない。


忍刀(しのびがたな)と呼ばれる短くて反りがない直刀を使っていたのである。


さらに、手裏剣は殺傷能力の高い“棒手裏剣”、苦無、を多用した。


そして、忍びの身体能力は、現代におけるアスリートを凌駕する。


これが忍びの事実だ。




服部半蔵正成の墓は、西念寺(東京都新宿区若葉2-9)にある。


宝篋印塔(ほうきょういんとう)の形をした立派な造りとなっている。




次回の『戦国武将 永眠の地』をお楽しみに(^^)/