油壺


読み: あぶらつぼ


所在地: 神奈川県



その由来は…。



マリンパークで有名な油壺


かつてこの地方を含む相模の国を治めていた三浦一族が、北条早雲の軍と戦い、三浦半島にある三崎城に立てこもった。


その戦いは3年もの長きに渡り、多くの死者を出した。


大群で攻めてくる北条軍に勝てるわけがなく、一族を率いていた三浦道寸をはじめとする将兵たちは討ち死にしていった。


そして、将を失った兵たちにはなす術がなく、彼らは海へ身を投げて命を絶ったのだった。


その際、海は血汐血に染まり、まるで油を流したようになったので、この油壺という名がついたのである。




テレビや映画の時代劇では、主人公がバッサバッサと敵を刀で斬り倒しているが、日本刀でそれを行うのは不可能だ。


人を一人斬れば、刀の刃に血と脂(←人間の脂肪)がベットリとつき、骨を斬ったことにより刃こぼれを起こす。


そう、日本刀は一人斬っただけで“鈍ら(なまくら)”と化してしまうのである。


つまり、日本刀が斬れる人数は一人だ。


刀が折れるのを承知で斬り続けたとしても、2~3人斬れば確実に刀は折れる。


だから、戦国時代、武将たちは足軽に複数の日本刀を持たせて戦に及んでいたのである。


ちなみに、日本刀は芯金(しんがね)と呼ばれる軟鉄と皮金(かわがね)と呼ばれる鋼鉄の2層構造となっている。


それで、適度にしなる弾性を持つとともに硬いという性質があるのだ。


皮金部分の重ねが厚ければ厚いほど強度が増す。


それゆえ、重ねの厚い刀は“首斬り刀”として処刑時に使用された。


その代表格が、肥後同田貫(正式名称・正国)と呼ばれる剛刀と、妖刀として有名な村正である。


刀は、鎧(よろい)を着た武者ごと叩っ斬る“戦刀”(刃渡り1mを超すものもあった)、騎馬ごと武者を斬る“斬馬刀”、鎧兜を叩き割る“兜割り”、鎧の隙間(関節部分等)を狙って突く“突き通し”など数多くの種類があり、武将はそれぞれ自分の戦い方に合わせた武器を造らせていた。


また、槍(やり)は名だたる武将が持つ“皆朱の槍”(通称・朱槍)、足軽等が持つ槍とに分けられ、槍の役目は敵を突き殺すよりも、柄の部分で殴り殺すことに主眼が置かれたものであった。


刀、槍、鎧兜(よろいかぶと)、これらは時代ごとにその形等が違うので、「どういう戦い方をしたのか?」を物語る。





次回の『怖い地名 日本編』をお楽しみに(^^)/