岡本太郎さんの「今日の芸術」からの一節。1954年に刊行されたものですが現代に生きる自分にも十分刺さる言葉です。

 

"ふつうの人は、「生活」というと、働いてその日その日をなんとか食いつなぎ、余暇には適当な娯楽、といってもせいぜい映画や、プロ野球、プロレス、ボクシングを見たり、あるいはハイキングか、温泉旅行というようなレクリエーションをするくらい。そして翌日からは、また精を出して、食うために働く。それが、まああたりまえ、人間なみの生活だというふうに考えています。

なるほど人は、社会的生産のため、いろいろな形で毎日働き、何かを作っています。しかし、いったいほんとうに創っているという、充実したよろこびがあるでしょうか。正直なところ、ただ働くために働かされているという気持ではないでしょうか。

それは近代社会が、生産力の拡大とともにますます分化され、社会的生産がかならずしも自分本来の創造のよろこびとは一致しないからです。逆にただ生きるために義務づけられ、本意、不本意にかかわらず、働かされている。一つの機械の部分、歯車のように目的を失いながら、ただグルグルまわって働きつづけなければならないのです。

「自己疎外」という言葉をご存じでしょう。

このように社会の発達とともに、人間一人一人の働きが部品化され、目的、全体性を見失ってくる、人間の本来的な生活から、自分が遠ざけられ、自覚さえ失っている。それが、自己疎外です。自分ではつかうことのない膨大な札束をかぞえている銀行員。見たこともない商品の記帳をするOL。世の中は自分と無関係なところで動いているのです。一日のいちばん長い時間、単一な仕事に自分の本質を見失いながら生きている。たいていの人は、食うためだ、売りわたした時間だから、と割りきって平気でいるように見えます。しかし、自己疎外の毒は、意外に深く、ひろく、人間をむしばんでいるのです。義務づけられた社会生活のなかで、自発性を失い、おさえられている創造欲がなんとかして噴出しようとする。そんな気持はだれにもある。だが、その手段が見つからないのです。"