長元八年(1035年)三月やよい七日,わたしが二十八の時。
『それはおかしなことですね。祈願文を添えるのが本来なのに。』と言って,
『この鏡を,こちらに映っている姿を見なさい,これを見るとしみじみと悲しいことよね。』とおっしゃって,さめざめとお泣きなさるのを見ると,転げ回って泣き嘆いている姿が映っています。
『この姿を見るととても悲しいですね。こちらを見なさい。』と言って,
もう一つの方に映っている姿をお見せになると,たくさんの御簾が青々と掛け渡されて,几帳を押し出している下から,色とりどりの衣がこぼれ出て,梅や桜が咲いている上に,うぐいすも木々を伝い鳴いているのを見せて,
『これを見るのは嬉しいですね。』とおっしゃるとばかりに夢に見たことです。」と,使いの僧が話すのでした。
どんな風に見えたことのか,などとさえも,このわたしは耳をとどめて聞くことはありませんでした。
(「帰りたる僧の言ひしは,鏡に映るさま」口語要約文と段付け,「」タイトルはfiorimvsicali。)
『あやしかりけることかな。文添ふべきものを。』とて,
『この鏡を,こなたに映れる影を見よ,これ見ればあはれに悲しきぞ。』とて,さめざめと泣きたまふを見れば,ふしまろび泣き嘆きたる影映れり。
『この影を見れば,いみじう悲しな。これ見よ。』とて,
いま片つかたに映れる影を見せたまへば,御簾ども碧やかに,几帳おしいでたる下より,いろいろの衣こぼれいで,梅・桜咲きたるに,うぐひす木伝ひ鳴きたるを見せて,
『これを見るはうれしな。』と,のたまふとなん見えし。」と語るなり。
いかに見えけるぞとだに,耳もとどめず。
【更級日記,菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ 原作】