長元六年(1033年)五月さつき七日,わたしが二十六の時。東国より父の手紙の使人つかいびとがこちらに着きました。
「神拝という仕事で,常陸国を馬で巡った時に,川が美しく流れている野原の,広々としたところに木立があって,
『風情のあるところだな。京にいるお前に見せないで残念なことだ。』
としみじみ思い出して,『ここは何という地名なのか。』と尋ねると,『子偲びの森と申します。』
と答えたので,この自分の身に比べられて,たいそう悲しかったので,馬から降り立ちて,その場にしばらく半日ほどぼんやりと物思いに沈んだのだ。
お前を京の都に置いてきたように,誰かが子を置いてきて悲しい物思いをしたのだろうか。ここは,まさしく子偲びの森と呼ぶのを聞いて,わたしも深い悲しみに包まれたのだ。
とばかり思ったのだ。」
と父の手紙にあったのを読むわたしの気持ちなどは,今更言うまでも無いことですね。
お返事として…,
子偲びの森と聞くにつけても,わたしを京の都に置いていらして,父君が居るという秩父(偶然にも,父の掛け詞)の山中は険しく辛い道のりでしょうね,わたしも辛いですよ。
と,送ったのです。
(「子偲びの森」口語要約文と段付け,「」タイトルはfiorimvsicali。)
東より人来たり。
「神拝といふわざして国の内ありきしに,水をかしく流れたる野の,はるばるとあるに,木むらのある,
『をかしき所かな,見せで。』と,
まづ思ひいでて,『ここはいづことかいふ。』と問へば,『子忍びの森となむ申す。』
と答へたりしが,身によそへられて,いみじく悲しかりしかば,馬より降りて,そこに二時なむながめられし。
とどめおきてわがごと物や思ひけむ見るに悲しきこしのびの森
となむ覚えし。」
とあるを,見る心地,いへばさらなり。
返りごとに,
こしのびを聞くにつけてもとどめおきしちちぶの山のつらき東路
【更級日記,菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ 原作】