OSHO FESTIVAL 2013

熱く、クレイジーで、トータルなセレブレーションの後の
ジュージーでエンプティな深い静寂・・・。

OSHOの池にぽちゃんと飛び込んだら
そこはOCEANでした。







ペタしてね


現在インドのPuneでおこなわれている
Meeraのペインティングコース、
とても参加したかったのだけど、
諸事情でまだ日本に。

(Meera painting group ↓)
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.10151322183979000.507012.88143803999&type=1


私がはじめてMeeraのコースに出会ったのは
2008年の今頃。

今でも忘れられないのが
最後のセッションでのできごとです。
思い出すと今でも目がじんわりしてきます。

記録として
ブログに残しておくことにします。

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私たちは自分が描いた大きな絵を
人から見えるように持って
集まりました。

「さあ、絵を見て、今パートナーを組みたいって
思う人のところに行って!」

南インドの冬の乾燥した空気を通してやってくる光を、
たくさんの絵たちはやさしくリフレクトして
それぞれの輝きを放っていました。

どの絵のところに行こうかな~
と、うろうろしていると
マルゴという女性が私のところに来て言いました。

「あなたは、ダンスをしたり絵を描くときと、
通訳するときの顔が全く違うの。
ダンスをしたり絵を描くときは女性的なんだけど
通訳してるときは男性的だったわ。私と真逆、もしくは似てると思ったから
あなたと組みたいの。」

私たち参加者はすべて2人組になって
2人で一枚の大きな絵を描きました。

私とマルゴ。

最初私たちは、紙のうえの
なんとなく感じる自分のテリトリーに
それぞれ自分の好きな色を置いていきました。

ときどきは2人が入り交じることはあれど
お互いの領域を尊重して
どちらかというと
礼儀正しく絵を描いていました。

しだいにどちらともなく
互いのストロークをフォローし合うような
遊びを始めました。

あなたがこう描いたから、
私は呼応してこれを描くわ
といった感じで。

それは、たわいのないおしゃべりのようでした。

あるとき
マルゴが
真っ黒な渦巻きを私のテリトリーに描いてきました。
私は一瞬ショックを受けました。

次の瞬間
「おお、来たな!」
と感じ、私も思いっきり
白い絵の具で応戦しました。

マルゴが大胆なことをやってくれたおかげで
自分も楽になり
ふだんあまり使いたがらないダークな色や
強い筆使いで私も描き始め
画面は宇宙のダイナミズムをあらわしているような
迫力のあるものになってきました。

私はいまここにある自分自身を表現していました。
全身全霊っていうのは
こういうことね、って感じで。

私とマルゴの間には
もうすでに遠慮はなく
お互いじゃんじゃん、自分を表現していました。

それでいて、画面は不思議とある統一感を持つようになりました。

するとマルゴはまたそれを壊しました。

∑(゚Д゚)


壊れたと思っても
そうではなく
新しい突破口でした。

そしてまた、2人して、
壊して、作り上げて、
ってやっていて

最後にできた絵は
やっぱり「美」がそこにある
といわざるをえない
ダイナミックで、深く
調和のとれたものになっていました。

私とマルゴは
長いハグをし、泣きました。


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この経験は、後になって
人間関係上、とても役立っています。


組織や、関係性において
誰かが我慢するのではなく
(あるときは誰かがリードし
あるときは誰かがフォローするという
場面があるにしても)
誰もが自由に発言でき
自分自身を表現できることが必要だと感じています。

それができなければ
それはとても不健康なことで
個人も社会も病気化してしまうんではないでしょうか。







体罰を受けて自殺した少年のニュースの周囲で
体罰のことが論議にあがっています。


体罰それ自体が
よい、悪いで話題になっていますが
ポイントはそこではない気がします。

私の父は、教師でしたが
けっこう「ボウリョク教師」だったみたいです。^^
でも不思議と、
卒業後もわが家にご飯を食べに来る生徒がいたり
卒業生に仲人を頼まれたり
恩師として結婚式に呼ばれたり
多くの生徒と人間関係は築いていたようです。

私は基本的に
暴力は絶対反対です。

が、見逃してはならないことは
生徒や自分の子どもと
本当の意味でガッツリ向き合っているかだと思うのです。

オーセンティックなエネルギーを
ひとりの人間として
生徒に、子どもに注いでいるかどうか。

オーセンティックなエネルギーというときに
そこにはエゴを超えた
なにかがあると思います。

本当に伝えたいこと。
今ここにある本当の自分。
それを受け取ったり判断したりするのは
子どもの自由です。

子育てや教育の現場で
親や教師のエゴが
そのまま子どもに向けられているような気がします。

あるいは、子どもと本当に向き合うことを恐れて
叱れない親、教師。

親や教師のインナーチャイルドの癒しは
絶対必要なのに
その必要性はあまり叫ばれていません。

体罰がいいか悪いかではなく
親と教師が、まずは自分自身と向き合うことが
先決だと思うのです。