第411編 小澤征爾
| ■今日は指揮者・小澤征爾のウィーン、ボストン、ベルリンでの演奏です。 |

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| 小澤 征爾 |
小澤 征爾(おざわ せいじ、1935年9月1日 - )指揮者。ウィーン国立歌劇場・音楽監督。満洲国奉天市(中国瀋陽市)生まれ。父小澤開作は歯科医師。親交のあった板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつ貰って「征爾」と命名した。
成城学園中学校卒業後、秋山和慶、山本直純らと共に齋藤秀雄に指揮を学ぶ。その後、齋藤が教授を務める桐朋学園大学短期大学(現在の桐朋学園大学音楽部)入学、同短大卒。
短大卒業後、スクーターをもって貨物船で単身渡仏。1959年パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。ヨーロッパのオーケストラで多数客演。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮者コンクール第1位。カラヤンに師事。1960年アメリカ・バークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)クーセヴィツキー賞受賞。指揮者シャルル・ミュンシュに師事。1961年ニューヨーク・フィル副指揮者就任。指揮者レナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨークフィル来日公演に同行。
1961年にN響の指揮者に招かれ指揮活動を開始するが、N響は若い小澤の指揮活動に反発を強め、演奏会をボイコットするなどの強行手段に出た。小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任。日本では音楽活動をしないと決め、その後渡米。N響とは1995年1月に共演。1964年シカゴ交響楽団(音楽監督。
1964年から1968年までトロント交響楽団の指揮者就任。1966年にウィーン・フィル初指揮。1970年、タングルウッド音楽祭音楽監督就任。同年サンフランシスコ交響楽団音楽監督就任、1976年まで務めた。後、新日本フィルハーモニー交響楽団の桂冠名誉指揮者。
1973年、ボストン響・音楽監督。ウィーン・フィル、ベルリン・フィルをはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなる。ボストン響の音楽監督は2002年まで一人の指揮者が30年近くにわたった。タングルウッドには、小澤征爾の功績を記念して日本の電気メーカーNEC、ソニー元社長の大賀典雄などの援助により、"SEIJI OZAWA HALL" が建設された。
1984年9月、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び、小澤と秋山和慶の呼びかけにより、世界中から齋藤の門下生100名以上が集まり、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催。このコンサートが後のサイトウ・キネン・オーケストラとなる。
1998年に長野オリンピック音楽監督、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。長野オリンピック開会式では、小澤指揮によるベートーベン交響曲第9番を演奏。開会式会場と世界5大陸の都市(北京、ニューヨーク、シドニー、ベルリン、ケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結ぶ。
2002年1月、日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。このコンサートは世界中に同時生中継された。また2002年からはウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めている。
〔逸話〕天皇直訴事件:日本フィルが経営危機で解散する前に「皇室が交響楽団のパトロンになってほしい」と昭和天皇に直訴。日本では顰蹙を買ったが海外では、問題にもならなかった。
恋も激しかった。三井不動産社長江戸英雄の令嬢・京子と結ばれ、江戸英雄のバックアップを得て沢山の音楽活動ができ、すばらしいカップル、と思われていたが、当時の トップモデル、白系ロシア人入江美樹(小澤ヴェラ)と熱愛。江戸京子を捨て再婚、江戸を利用するだけ利用して名声を得たらボロ雑巾のように捨てた、という声がつきまとった。
2008年 文化勲章受賞
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ーアーティスト動向ー
