1.佐渡金山関連施設

 

大佐渡スカイラインから道遊の割戸が見えました。

佐渡金山(相川金銀山)の本格的な開発は1601年から始まったと言われています。

 

 

佐渡金山の象徴とも言える道遊の割戸は、1601年山師3人がここで金銀脈を発見したころから山が削られて、このように真っ二つに分かれることになり、この景観をになったようです。

人力による偉大なドボク仕事でもありますが、強欲のの塊の象徴とも言えるのでは・・・

人々の生活のために手掘りのトンネルを掘るのとはまったく別物で、そういう意味で鉱山開発はドボクではないとも言えます。

鉱山開発に利他行の精神はあるのでしょうか?

 

 

麓側からでも道遊の割戸をみることができました。

幅は30m、深さは74mもあるそうです。

 

 

道遊の割戸付近には、観光化された宗太夫抗と道遊抗が公開されていますが、ガイドツアー(予約制)のみでしか入ることができない大切山抗と無名異抗もあります。

出入口に立つだけで涼しい空気が流れてくるので、真夏の避暑地として最適ではないでしょうか?

この大切山抗は、山師が14年間手掘りで掘り進めて1647年大鉱脈を発見したといわれる貴重な坑道となっています。

 

 

宗太夫抗は江戸時代初期に手掘りで採掘された大型坑道です。

 

 

佐渡金山のもう一つの象徴、北沢浮遊選鉱場です。

銅の製造過程で行われていた技術、「浮遊選鉱法」を金銀の採取に応用し、日本で初めて実用化に成功したのがこの北沢浮遊選鉱場です。戦時下の大増産計画によって大規模な設備投資がされ、1ヶ月で50,000t以上の鉱石を処理できることから「東洋一」だったとか・・・

 

 

1940年が産出量ピークで、1952年に廃止となったそうです。

発電所も設置されていたようで、遺構として良い雰囲気を醸し出しています。

 

 

 

選鉱場の規模としては鉱山として東洋一といわれている神子畑選鉱場と比較してやや見劣りします。

 

 

高低差が低いので迫力はありませんが、遺構としては距離感が近く丁度いいサイズだと思いました。

 

 

シックナー(濃縮器)も残っていますが、神子畑と比較するとやや物足りなさを感じます。

 

 

土木遺産 大間港です。

佐渡金山関連で最も行きたかった場所です。

 

 

佐渡金銀山から採掘された鉱石や石炭などの資材を搬出入するため、1892年につくれた港です。

コンクリートが普及する以前に使われていた、たたき工法によって作られた堤防や護岸が特徴的で、今でも石積護岸やトラス橋、ローダー橋脚、クレーン台座が残っています。

 

 

新製鉱所敷地造成時の切崖土砂を運搬して埋立に用いたとされており、生産品の搬出や生産に必要な物資、特に溶鉱炉の燃料等に用いる石炭の搬入用として築港されたということです。

 

私にとって、ここのメインはローダー橋脚とクレーン台座です。

ローダー橋脚は、大間港で搬入・搬出される石炭・鉱石を陸揚・船積・運搬するための橋を支える構造物で、昭和13年頃の建設とされています。現存するローダー橋脚は、海側の2基を円錐台形の柱による構造物とし、陸側の1基を矩形の柱による構造物となっています。

クレーン台座が船渠の北側に2基、南西部に1基現存しています。 北側の2基は円錐台形の構造物で、下部は石積、上部は鉄筋コンクリート造です。2基は約24mの間隔を置いて配されています。

 

 

船渠中央部分には鉄骨造のトラス橋が架けられています。

トラス橋はホッパー施設で、橋梁上に鉱車等を乗り付けて、トラス橋の下に停泊させた艀に鉱山を落下させて積載したということです。土木遺産としてはかなりいい雰囲気を醸し出しています。観光客がいないのは残念としかいいようがないです。

 

相川にある「きらりうむ佐渡」をもっと利用価値の高いものにしていただきたいです。

映像を中心とした展示はわかりやすく、佐渡金山を知るには最適の施設だと思います。

 

 

 

2.神子畑選鉱場跡再び

 

佐渡金山に行く3日前に、私と同じドボクの道を選んだ娘と神子畑選鉱場に行ってきました。

娘が突然連れて行って~というので、親父としてはうれしいよね・・・

 

 

ここのシックナーの迫力は佐渡金山の比ではない!

 

 

ケーブルカーの跡もしっかりと残っていて遺構感はバツグンです。

 

 

神子畑選鉱場は明延鉱山の選鉱施設として建設された選鉱場跡です。

明延鉱山は戦国時代頃から採掘が始められ、金・銀・銅・鉛・錫などを産出してきた多品種非鉄金属鉱山でした。

実はこの神子畑選鉱場跡も、かつては鉱山として繁栄した時期があり、その歴史は古く、800年頃から鉱山として開拓されていたということです。銀と銅を産出する鉱山で一時は生野の支山として幕府の管理下に置かれましたが、生野銀山よりも鉱石の出産量が不安定だった為、繁栄と衰退を繰り返すこととなったということです。

神子畑は衰退は明治時代に進み、探鉱採鉱場の縮小を余儀なくされ、明治29年には三菱へ払い下げられ、大正6年にはついに閉山となってしまいました。その後明延鉱山が繁栄し、神子畑に選鉱機能を移設する計画が持ち上がります。鉱山としての役目は終えてしまったものの、神子畑は大正8年、明延鉱山から運び込まれた鉱石を選鉱する大規模な「機械選鉱場」として生まれ変わることになったのです。

 

その時に活躍したのが1円電車です。

 

 

その一円電車に入ってみました。日曜日には乗車体験と坑道見学ができるそうです。

 

 

鉱山遺構としては、佐渡金山より観光コンテンツとして魅力があるように思いました。

佐渡金山がんばれ!

 

 

昔の写真です。

 

 

近くに、鋳鉄でできた神子畑鋳鉄橋が架けられています。

フランス人技師の指導のもと造られたと言われており、単径間アーチ橋で鉄製の橋としては日本で三番目、全てが鋳鉄製の橋としては日本一の歴史を持つ貴重な橋です。

 

 

3.2017年の神子畑選鉱場跡

 

2017年にドローンで撮影した写真です。

2022年8月現在はドローン禁止の看板が立ててありました。

 

 

山の斜面を利用した神子畑選鉱場はひな壇状に22階層あり、幅110m、長さ170m、高低差75mの規模を誇りました。

 

 

明延鉱山から鉄道で運ばれた多品種の鉱石(錫、銅・亜鉛)の状態・種類に合わせた作業を行い、上層より破砕→比重選鉱→浮遊選鉱→脱水などを経て製錬施設に運ばれました。

 

 

当時は24時間稼働で、夜中になると選鉱場が光る姿が印象的で不夜城のようだったそうです。

 

 

「選鉱」とは?

採鉱した鉱石を必要・不要物に仕分ける作業。

神子畑ではこの選鉱という過程が行われていました。

 

 

「製錬」とは?

不純物の多い鉱石から高純度の目的金属を取り出す作業。

神子畑で選鉱された鉱石は金属別にそれぞれの製錬所に運ばれました。

錫は生野製錬所、銅は直島製錬所、亜鉛は秋田製錬所に送られたということです。

 

 

4.2018年の尾去沢鉱山

 

神子畑のドローン撮影に続き、尾去沢でも撮影させていただきました。

大きな煙突が残るなど、神子畑と同じくらい迫力のある遺構でした。

 

 

尾去沢鉱山の発見は奈良時代の708年であると伝えられており、鉱脈型銅鉱床と呼ばれる脈状の銅鉱脈を採掘した鉱山でした。

 

尾去沢鉱山は明治時代に三菱に鉱業権がわたり、以降閉山までの約90年の間三菱の経営により銅山として最大のピークを迎えました。ここで採掘された銅などの金属は産業近代化のうえできわめて重要な資源で、終戦後も我が国の産業復興とともに資源少国における貴重な存在として高度成長をささえたと言われています。その後、海外での大規模鉱山開発が進み、世界的な過剰生産と急激な円高により銅価格が低迷したことや尾去沢鉱山の銅鉱石が枯渇したことにより、昭和53年、1270年にわたる長い鉱山の歴史に幕を閉じたということです。

 

 

株式会社ゴールデン佐渡が2006年にマインランド尾去沢を買収し、2008年4月に「史跡 尾去沢鉱山」としてリニューアルオープンしました。1.7kmの観光坑道が見学可能で、坑内では採掘跡、運搬設備、坑内事務所といった近代の鉱山および江戸時代の鉱山の様子を見学することができます。

 

 

5.小坂鉱山

 

1861年に金、銀の鉱山として開発が始まりました。

1869年から明治政府の官営施設になり、1884年には藤田組(当時)に払い下げられ、1901年には銀の生産高が日本一の鉱山となったということです。やがて製錬技術が向上すると黒鉱から採れる銅や亜鉛、鉛の生産が主体となり、労働者を集めるために、山の中にアパート、劇場、病院、鉄道等の近代的なインフラ整備が進められ大きな鉱山都市になっていきました。

第二次世界大戦直後には資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1960年代に入り新鉱脈が発見されると採掘が再開され、1990年まで存続しました。

その繁栄の名残りが、小坂駅跡です。

ブルートレインの「あけぼの」がホテルになっていました。

 

広い構内、現在は「小坂鉄道レールパーク」になっています。

 

 

その他、康楽館(芝居小屋)や小坂鉱山事務所、廃線跡がきれいに整備されています。

 

 

6.松尾鉱山

 

何回も紹介している東洋一の硫黄鉱山である松尾鉱山。

今年も2回訪れました。

 

 

19世紀末から1969年まで、八幡平市松尾に存在した鉱山で、おもな鉱物は硫黄で、黄鉄鉱も採掘されていました。
その後、松尾鉱山は重油脱硫による回収硫黄等の影響をまともに受け、昭和44年に事実上の閉山、60年間の鉱業が行われていました。

 

 

八幡平から見た旧アパート群です。

ここは、鉱山での生活すべてが完結できるように、社会の福利厚生として住宅・病院・生活に必要な売店・学校・郵便局・銀行・娯楽施設等が設置され、最盛期は従業員4,000人あまり、家族を合わせた人口は約15,000人が生活していたということです。

 

 

またセントラルヒーティングや水洗トイレ完備の鉄筋コンクリートによる集合住宅、劇場など生活に快適な当時の最新設備が導入され、松尾鉱山は「雲上の楽園」と言われ、麓の人は松尾鉱山へ買い物や映画、演芸を観に行くことが楽しみだったということです。まさに鉱山都市!

 

 

小坂は現在も町として存在していますが、ここは完全に廃墟のみとなっています。

鉄道(松尾鉱業鉄道)も走っていたのに・・・