空海が築いたと言われている満濃池は灌漑用のため池として日本一と言われています。
そもそもため池とダム湖の違いってどうなの?
ダムには発電ダムや治水ダムもありますが、農業用ダムに限って言えば、両者に違いはありません。ただ、水をせき止めている堤の高さが15m未満のものをため池と呼んで区別しているだけなのです。
満濃池の堤の高さは32m、正確には「満濃池ダム」ということになります。ただ、造られたのがダムという概念がなかった奈良時代ということで「日本一のため池」として、改築されて大きくなってもそのまま池という名前が残ったということなのでしょう・・・
【中国農政局の資料より】
「萬農池後碑文」によると大宝年間(701年~704年)に讃岐の国守道守朝臣の創築と伝えられています。しかし弘仁9年(818年)に決壊、朝廷の築池使路真人浜継が復旧に着手しましたが、技術的困難と人手不足によって改修がならず、国守清原夏野の発議により、弘仁12年(821年)空海が築池別当として派遣されました。
空海が郷土入りをすると人々は続々と集まり人手不足は解消し、唐で学んだ土木学を生かして、わずか3ヵ月足らずで約8.25km面積約81ヘクタールの大池を完成させました。朝廷は空海の功を賞して富寿神宝2万を与え、空海はこれによって神野寺を池の畔に創建しました。
空海の築いた満濃池は、その後何度も決壊と修築を繰り返しましたが、元暦元年1184年の洪水の決壊後は、鎌倉、戦国の戦乱期もあり、放置されたままとなりました。
その後約450年を経た寛永2年(1625年)生駒讃岐守は、家臣であり土木工事の名人である西嶋八兵衛に修復を命じ、寛永8年(1631年)に完成し、33群ケ村の田を潤しました。その後も、安政元年(1854年)の大地震で再び破堤し、高松藩執政松崎渋右衛門の支援のもと、榎井村の長谷川佐太郎らの尽力によって明治3年(1870年)に復旧工事が完成しました。
この後、明治38、9年に堤防を3尺(0.87m)かさ上げ、大正3年(1914年)には全ての樋をコンクリートや花こう岩に替え、煉瓦造りの配水塔も設けられました。しかし灌漑用水としての水不足は続き、昭和2年に5尺(1.51m)のかさ上げ工事を行い、昭和16年(1942年)から6メートルという大規模なかさ上げ工事にかかりました。その後、第二次世界大戦にと時代は混乱期を迎え、昭和19年には工事が中止、戦後21年から再開、昭和34年(1959年)についに完成し、貯水量1,540万トンという現在の満濃池の規模となったのです。
碑がたくさん立っています。これほど大切にされているため池は見たことありません。
たかが、ため池と侮るなかれ・・・
空海がつくったのだから