1. 瀬戸大橋開通31年

 

久々にやってきました瀬戸大橋。

下津井の町に下りる手前の交差点、ずっと赤信号で止まっていたい!

 

 

 

1988年(昭和63年)完成の瀬戸大橋。開通してもう31年になります。

現在でも、日本が世界に誇る最高傑作のドボク構造物だと、私は思っています。

海峡ひとまたぎの明石海峡大橋も凄いですが、吊り橋や斜張橋が連続する瀬戸大橋の迫力は別格です。

 

 

鉄道・道路の併用橋では世界一とされています。

これほどの鉄道併用橋は今後日本で建設されることはないでしょう・・・たぶん

 

 

同時期に青函トンネルも開通しており、日本の土木技術は世界一だと確信した時代でした。

では、なぜこのような巨大建造物が建設されたのでしょうか?

 

昭和29年の洞爺丸台風による国鉄連絡船「洞爺丸事故」をご存じでしょうか?

日本海難史上最大の惨事(死者行方不明者1155人)で、青函トンネルの建設計画が動き出した「きっかけ」となりました。

続いて翌年、昭和30年の国鉄連絡船「紫雲丸事故」(濃霧による衝突事故)が発生。修学旅行生など168人の死者を出したことで、本格的に架橋計画が動き出したという・・・※事故の詳細はWikiで

 

なんとも言えぬ「きっかけ」です。大きな事故や災害で多くの人がなくなる、その後に大規模な対策を実施する。これがドボクなのです。

 

 

瀬戸大橋独特の音。列車が走ると「ぐうぉ~」という音が聞こえてきます。

国鉄の宇野線ができて宇高連絡船が運航されるまでは、この瀬戸大橋に近いラインの下津井~丸亀が「四国往来」の主要ルートでした。

瀬戸大橋の開通でメインルートが復活したともいえるでしょう。

 

 

関門橋ほどではないですが、20回以上は渡ったような気がします。

海面に近づきやすいデザインの護岸です。

 

 

2.下津井

 

かつて茶屋町と下津井を結んでいた下津井電鉄。

1972年茶屋町~児島間廃止。

1988年瀬戸大橋開通後の1991年1月1日に、残りの児島~下津井が廃止されました。

乗りたい!乗りたい!と思いをつのらせたまま、結局乗らぬまま廃止を迎えてしまいました。

廃線跡は「風の道」として自転車道になっています。

 

 

下津井でタコ料理専門店「保乃家」で、タコめしとタコのつみれ汁を食べました。

めっちゃうまい!知る人ぞ知るお店みたい・・・

 

 

3.倉敷へ

 

下津井でタコ料理を食べたあとは倉敷へ。

私の好きな蟲文庫は閉まってました・・・店主が骨折したそうで・・・

 

 

倉敷は美観地区が有名ですが、美観地区の東側の本町通り・東町がおススメです。中国人が少なく、古民家を再生したこだわりのショップが多いのでのんびりとオシャレな散策ができます。

 

 

休日でも、人通りは少なくいい雰囲気を味わえます。

 

 

ガラスペンのお店もあったりします。

 

 

ドボクな風景。

 

 

坂があると魅力が増します。

正面は大原美術館です。

 

 

江戸時代、倉敷は江戸幕府の直轄領「天領」で、物資が集まる「まち」でした。

林源十郎商店は、おっさんをもひきつけるお店です。

 

 

裏路地もいい感じです。

 

 

倉敷川を中心とする一帯は早くから干拓による水田地の開発が進められていました。

 

 

1600年に備中国奉行領となり、その後松山藩の玄関口として、1642年に代官所が置かれ「天領」となったそうです。

 

 

当時の倉敷川では、潮の干満を利用して多くの船が航行していたそうです。

天領になったことで、塗屋造りの町家や白壁土蔵造りを中心とした町並みが形成されてきたということです。

 

 

私は美観地区より、この坂の風景が気に入っています。

 

 

むき出しの排水管がえ~感じです。

 

 

この昔ながらの風景が残っていることに驚きです。

 

 

倉敷では商人たちが地主になり発展し、明治時代に紡績工場ができてイギリス式を導入。

そして江戸時代の蔵と明治時代もの洋館が隣り合う不思議な町並みができたという・・・

 

 

昭和43年に「倉敷市伝統美観保存条例」を制定、令和になった今も、伝統的な町並みをのこしつつ、素敵な町へと変化を続けています。

 

 

私の好きな「RALEIGH」のクラッシックな自転車が・・・