1. 暖冬少雪の奥只見シルバーライン
奥只見と言えば豪雪。豪雪と言えば奥只見。
スキー・スノーボードが大好きな人なら、誰もが知っているのではないでしょうか?
ここにある奥只見丸山スキー場は、雪が多すぎてシーズン中はクローズしてしまう、初すべりと春スキー専用のスキー場なのです。
今年は暖冬傾向で、12/24時点で魚沼・湯沢近辺のスキー場はほぼアウト!(大原スキー場はOK。12/23はリフト券タダでした)
当然のごとく「かぐら・みつまた・田代」はめちゃこみでした。
この日は、バックカントリーのキックオフイベントで、軽く滑ったあと、ビーコンを使ったアバランチトレーニングをする目的で奥只見丸山スキー場に向かいました。
奥只見ダムの建設のために、資材輸送道路として昭和29年から4年の歳月を費やしてつくられたのが奥只見シルバーラインです。
起点の折立からダムサイトまで、延長22㎞のうち18㎞がトンネルという、山岳地下道路なのです。
12号トンネルまでは、トンネルとスノーシェッドと明かり区間が交互に現れますが、13号トンネルからダムサイトまでは、ほとんどトンネルの中です。初めてここを訪れたドライバーは、いつになったらトンネルを抜け出せるのか不安になることでしょう・・・
トンネルは1号~19号まであります。
1号トンネル 折立トンネル 235.7 m
2号トンネル 西の沢トンネル 169.1 m
3号トンネル 神山トンネル76 m
4号トンネル 猿沢トンネル 100 m
5号トンネル 駒見トンネル 37.3 m
6号トンネル 真平トンネル 118 m
7号トンネル 吹上トンネル 63.6 m
8号トンネル 小屋場トンネル 73.3 m
9号トンネル トトが沢トンネル 395.7 m
10号トンネル 高平トンネル 541.1 m
11号トンネル 栃の木トンネル 102 m
12号トンネル 津久の岐トンネル 1602.1 m
ここまでは、明かり区間もあり景色が楽しめます。
13号トンネルからは、ひたすら暗闇の中を走ります。
(13号~16号はスノーシェッドで連続しており6,587.8m) ※雁坂トンネル(6625m)並み!
13号トンネル 湯の沢トンネル 2252 m
14号トンネル黒又トンネル 1430 m
15号トンネル 蕨トンネル 659.3 m
16号トンネル 居守沢トンネル 339 m
(17号~19号はスノーシェッドで連続しており10,256.3m) ※恵那山トンネル(8649m)より長く、関越トンネル(11055m)並み!
17号トンネル 明神トンネル 3989.5 m
18号トンネル 荒沢トンネル 3057.2 m
19号トンネル 仕入沢トンネル 3129.5 m
ダム建設のために、なぜ?これほどの道路が必要なのでしょうか・・・
日本一高い重力式コンクリートダム(堤高は157.0m)の奥只見ダム。
同時期に建設された黒部ダムと同様、日本の高度成長期になくてはならない存在だったことは確かです。
そのような巨大ダム、資材運搬(セメント、鋼材、木材などの各工事資材及び各機器など40万トン超)がどれほど重要かは、ドボク関係者以外でも容易に推察できると思います。
ダム地点は、標高600~800mで日本一とも言われる豪雪地帯(積雪量が6m超)。
当時、奥只見に続く道路は標高1100mの枝折峠を越える40kmのルートしかなく、除雪も不可能で12月~5月の約半年は通行不能でした。人と設備を投入しても資材が届かなきゃ話しにもならない・・・半年しか工事ができない・・・仮設備は維持しないといけない・・・そのための除雪も必要・・・このままじゃあ日本一の巨大重力式ダムなんていつ完成するやら・・・
電力不足が深刻な当時の日本。
それじゃあトンネル掘るしかない!
ということで、新設道路の工事は全体を5工区に分けて請負契約を行い、昭和29年12月から昭和30年11月にかけて着工したということです。
延長約22㎞(うち約18㎞はトンネル)の工事費は約40億円。
3年後の昭和32年11月に完成したということです。戦後間もない時期に、このトンネルを3年で掘ったのか・・・すごい!
実際の幅員は狭くなったり広くなったりと走りにくい道路ですが、有効幅員は6.5m で2車線として計画されたということです。
トンネル工事は主に全段面掘削工法を採用、大型ジャンボー、ローダー、バッテリーロコ等の大型機械により施工され 18号荒沢トンネルにおいては昭和31年9月に月間(30日)進行275m、1日進行14m(9月6日)の記録(当時日本における隧道掘進の最高記録)を出したということです。
工事に関わった作業員の最盛期労務者数3,700人、全工期を通じ労務者延べ1,802,600人だったということです。
当然ながら当時のトンネル工事には犠牲者がつきもの・・・
この工事の犠牲者は44名、このうち17名は雪崩や凍死などの雪害によるものだったということです。
2. 資材運搬道路から有料の観光道路へ、そして無料開放
奥只見の観光に使うために、新潟県は昭和44年10月1日にこの道路を電源開発㈱から無償で譲り受けました。
新潟県は、企業局で道路整備特別措置法に基づく有料道路事業として認可を受け、22億8,500万円を投じて建築限界確保のための盤下げ及び上部拡幅、白光岩交差部の拡幅、換気・照明・防災設備設置、料金所・駐車場建設などの工事を行い、昭和46年8月1日「奥只見シルバーライン」の愛称で営業を開始しました。
奥只見丸山スキー場が昭和53年4月にオープンし、観光道路として年間通行台数が20万台を超えることもありました。
しかし、年間の通行車両台数は開業初期の計画台数20~50万台に対しても10~15万台にとどまり年々赤字が続き、昭和50年10月25日に発生した落盤事故をきっかけとなって、昭和52年4月1日に無料開放されました。
スキー場は空いていましたが、コンディションはイマイチ。膝のリハビリ中の私とその他おじさん2人はリフト4本分滑って、まったりと休憩。その後は全員でアバランチトレーニング。何回やってもビーコンの扱いはイマイチの私でした・・・
年末の寒波、期待してますぞ~