1. 土木遺産   大津島(旧)回天発射訓練基地

 

 「人間魚雷」という恐ろしい言葉を聞いたのはいつの頃だったのでしょうか・・・恥ずかしながら「人間魚雷」=「回天」であることを知ったのは10年くらい前の事でした。当時、小学生だった子供たちに戦争の歴史を知ってもらおうとの思いで訪れた大和ミュージアム、そこで初めて見た「回天」は本当に衝撃的でした。こんな兵器があっていいものなのか・・・

 その後、毒ガス工場の「大久野島」・旧海軍兵学校の「江田島」・象山地下壕の「松代大本営」・知覧特攻平和会館などなど、全国の戦争遺跡等を回るようになり、8年前この「回天」の大津島にたどりつきました。この施設は全国で唯一残っている太平洋戦争末期(昭和19年)につくられた「回天」の発射訓練基地で、ここを訪れるのは今回(12/2)で2回目です。

 

 

2. 「回天」とは

 

 「回天」とは、〝天を回らし、戦局を逆転させる〞との願いを込めて開発された特殊兵器の呼称で、機密保持のため「丸六金物」と呼ばれていたそうです。この兵器は人(搭乗員1人)が乗り込めるように改造された魚雷で、大型潜水艦に搭載され、目標近くから発進して目標に体当りし、搭乗員ごと爆発するという「特攻兵器」でした。特攻=ゼロ戦ではないこと知ることになりました。

 

 

3. 「回天」の島、大津島へ

 

 当日、周南市東部の宮ノ鼻からSUP(スタンドアップパドルボード)で、海峡を横断して大津島に渡るつもりでしたが、大型貨物船の往来が多く、何かもやもやしたものを感じたので旅客船で行くことにしました。

 

 

 下の写真が大津島です。縦長でY字を少し崩したような形の南北10km足らずの島となっており、奥のほうが周南市徳山です。

 かつては二つの島でしたが、400年くらい前に二つの島が砂州でつながったようです。人口は約400人程度で七つの集落がありますが、少子過疎高齢化により限界集落とも言われています。我々観光客にとっては、とっても静かでのんびりしたきれいな島ですが・・・

 

 

 大きな看板が迎えてくれます。船の乗客は地元の方と釣り人くらいで、本当に静かな島です。

 

 

4. 空撮:(旧)回天発射訓練基地

 

  今回の広島出張で、どうしてもやりたかった事、それは(旧)回天発射訓練基地の空撮です。まずは砂州からドローンを飛ばしました。発射訓練基地の近くに「回天」を運搬するためのトンネルが見えます。

 

 

 この施設は元々、九三式酸素魚雷の発射試験場として造られたもので、呉市の海軍工廠水雷部において製作された魚雷を海上運搬してここから発射し、その性能を背後にそびえる鬣山山頂付近の魚雷見張所において確認するものでした。

 

 

 搭乗員は、「回天」に乗り込んでから、クレーンで吊り上げられ海上に降ろされたようです。現在はいい釣り場になっているようです。

 

 

 横抱艇と呼ばれた船に曳航され、基地の沖合いに設置されていたブイまで運ばれます。その場所から熟練度により五つの訓練水域を使って訓練が行われていたようです。

 

 

 この基地だけではないと思いますが、訓練中に殉職した者は15名もいるとか・・・恐ろしい兵器です。

 実際に出撃戦死した者は87名で、終戦により自決した者2名と整備員を含めると、回天による戦没者は145人といわれています。

 

 

 訓練中の死者は数ある特攻兵器の中で最も多いとされています。特攻兵器、「空中」の航空機以外では「水中」の回天(人間魚雷)、海龍(特殊潜航艇)、伏竜(人間機雷)、「水上」の震洋(爆装特攻艇)、マルレ(四式肉薄攻撃艇)などがあります。

 

 

 空から訓練海域を見てみます。島の西側は瀬戸内海では珍しい断崖絶壁の島です。

 

 

 山の頂上付近に魚雷見張所が見えます。

 

 

 北東方向に徳山の工場群が見えます。

 

 

 高度を149mに維持したまま、ドローンを南西方向に引いていきます。

 

 

 馬島の見事な風景です。「回天」の乗組員たちはこの風景をどのように感じていたのでしょうか?「回天」からは見えない風景・・・

 

 

 東側に回ってみました。砂州の左側が基地です。

 

 

 馬島港の上空から、中央に訓練基地、右端に回天記念館が見えます。

 

 

 当時は、砂州の北側に様々な施設が建設されていました。

 

 

 基地に戻ってきました。12月になって新潟の山々は真っ白になりましたが、瀬戸内海の紅葉はまだまだ見頃です。

 

 

5. (旧)回天発射訓練基地へ

 

 下の写真は「回天」を整備工場から訓練基地までトロッコで運搬するときに使用されたトンネルです。長さはおよそ250m、高さはおよそ4mあり、路面以外は当時のままの状態で残されているそうです。

 

 

 

 回天記念館で聞いたのですが、10年以内に施工されたかのようなトンネルの覆工コンクリートは当時のままで補修されていないそうです。材料も施工もほぼ完璧だったのではないでしょうか・・・

 

 

 

 トンネルの途中には解説用のパネルと写真があり「回天」のことがある程度理解できるようになっています。

 しばらく歩いて、坑口を出ると基地に到達です。

 

 

 当日は5人の釣り人が釣りを楽しんでいました。暗い歴史を背負った戦争遺産と釣り人たち・・・なんとも平和な風景です。

 

 

 

 この施設は「回天」の発射基地ではなく訓練基地です。訓練は終戦の昭和20年8月15日まで続けられたそうです。

 

 

6. 回天記念館へ

 

  回天記念館では職員の方に親切にしていただき、山口県内にある他の土木遺産について教えていただくなど、土木遺産や土木施設の見方など貴重な情報交換ができました。テーマを持って旅をすると、様々な人との交流も増えて、たいへん充実したものになることをあらためて実感させていただきました。

 

 

 回天記念館で最も印象に残ったことは、視聴覚コーナーのビデオ(元搭乗員たちが「回天」のことを語る「時代の証人」)で見た特攻隊員の言葉です。彼らはこの任務を悲壮なものとは一切とらえず、私には全く理解できないほどの高い意識で訓練に臨んでいたということです。

 

 

 「特攻」に関しては、様々な考え方があると思います。言葉にはできませんが、いろいろな施設を訪れるたびに心がゆれてしまいます・・・

 

 

 まだまだ訪れる人が少ない大津島、近くにきたら是非寄ってみてください。

 

 

 

 徳山港への帰り便は、視界の広い「回天」でした。