1. 道路から

 

 吉田松陰先生の町「萩」から東へ約25kmのところにある惣郷川橋梁(1932年に完成)。

 橋長189.14m,高さ11.6mの鉄筋コンクリートラーメン橋で、単線2柱式の3径間2層ラーメンを基本とし,長さ30mを1ブロック3径間として計6ブロック+単T桁1径間で構成されています。この橋、見慣れている感じはあるのですが・・・実はまった見たこともないような変な橋だと思いませんか?

 そんな鉄筋コンクリートラーメン橋を、クルマで訪ねます。道路は狭いのですが駐車スペースはあります。

 

 

2. 鉄道(JR山陰本線)から

 

 須佐の海岸にクルマを止め、インフレータブルSUPを背負い須佐駅へ。

 

 

 須佐駅からJR山陰本線で宇田郷駅へ向かいます。列車はキハ40系だったと思いますが、国鉄時代の懐かしい気動車が現役で走っていました。エンジン音の唸り具合がなんとも山陰らしいというか・・・え~感じですわ~

 

 

 橋梁はカーブを描いているので、東京のように15両編成だと車窓から橋梁と列車がばっちり撮影できるのでしょうが、1両なので窓枠しか写りません。宇田郷に到着してSUPの出航準備に入ります。

 

 

 

3. 海から(SUP)

 

 宇田郷の海岸から、惣郷川橋梁に向かって漕ぎ出します。きれいな海に美しい風景、絵になります。

 

 

 土木学会の資料「日本の土木遺産」によりますと、惣郷川橋梁の設計にあたって大きな課題は、波浪による浸食や塩害による橋梁の耐久性をどうするかでした。このため①鉄桁(プレートガーダー)にモルタルを吹付ける案②鉄骨鉄筋コンクリートトラス案③鉄筋コンクリートラーメン案の3案が比較検討され,施工実績や工事費などを勘案した結果、鉄筋コンクリートラーメンを採用することとなったとされています。

 基礎地盤は良好だったそうですが、波浪による洗掘が懸念されたため,井筒基礎という基礎が用いられたということです。

 また、ここで採用されたラーメン構造、当時、都市部における高架橋の基本構造としてすでにいくつかの適用事例がありましたが,鉄道橋として独立した橋梁に用いた例はあまりなかったようです。

 

 

 4. ドボク作業を子供に?

 

 工事着手は1931(昭和6)年5月、同年9月の暴風雨で基礎の仮設工が波浪で破壊されるなどの被害があったものの、1932(昭和7)年8月に竣工,翌年2月に開業して、山陰本線京都-幡生間が全通したということです。最後の区間だったんですね。

 土木学会の資料「日本の土木遺産」によりますと、脚柱下部の狭隘部分のコンクリート突固め作業にあたっては、「熟練せる子供」が活躍したというエピソードが残っているということ・・・。

 基本的に子供はドボク作業(砂場でトンネル掘ったり山創って壊したり、川の石でダム造ったり・・・)が好きなのですが、法律ははもちろんのこと安全面を考えると、例えイベントであったとしても現在は無理ですよね・・・

 

 

 土木学会「日本の土木遺産」より

 

 惣郷川橋梁の造形は,鉄筋コンクリートの特徴を最大限に活かした無駄のない形を基本としながら、全体をひとつの連続した構造物として完結させている点にある。ことに、3径間のラーメン構造を背割式で継ぐことによって全体があたかも多径間の連続ラーメン橋梁であるかのように見せている点は秀逸で、よく見ると各ブロックの端柱と端柱の間に伸縮継目を観察することができるが、遠目にはほとんど気がつかない。また,開脚式の脚柱を採用することによって,背の高い構造物に対して安定感を与えているが、これも当時としては画期的な試みであった。

 

 

5. 見慣れている感じなのに・・・実はまった見たこともないような変な橋なわけ

 

 新幹線の画一的なラーメン構造を見ていると景観的に残念な気もしますが、この工事以降、日本の鉄道に大きな影響を与えたといえます。ラーメン構造は,厳しい荷重条件と耐震性,経済性を満足することのできる構造として鉄道高架橋の標準形式として多用されていますが、これほど数多くのラーメン高架橋を建設してきた国は世界中捜しても他ににないだろうといわれています。景観的に評判がよろしくないラーメン高架橋ですが、山陰海岸に溶け込んだ惣郷川橋梁の姿は美しく、ラーメン構造の原点を今に伝えているという意味で貴重な橋梁であると、感慨深げに眺めるのであります。

 

 惣郷川橋梁を過ぎると、きれいな山陰海岸を満喫することになります。洞窟やプライベートビーチを楽しみながら、クルマを置いた須佐の港を目指します。

 

 

 SUPによる、約12kmの快適な海旅となりました。