1. 「越後平野の守り神」大河津分水路

 

 「越後平野の守り神」と言われている大河津分水路。信濃川が日本海一番近づく約10㎞を掘削して造った人工河川で、世紀の大土木工事と言われています。

 

 

2. 横田切れ

 

 江戸時代から動きのあった大河津分水路工事は一向に進んでいませんでした。しかし、横田切れという大災害を機に大河津分水路工事は動き出すことになります。

 横田切れから121年、その場所を空撮してみました。最初に新潟市側を見てみると、左側の道路が外側の堤防となっており、広大な水田は高水敷で、右側に信濃川本流が流れています。

 

 

 ドローンを180度回転させて長岡方面をみてみます。右側が信濃川本流で左側から刈谷田川(平成16年新潟・福島豪雨で甚大な被害が発生)が合流しています。高水敷の広大さが確認できます。これであふれたら、それはそれであきらめて逃げるしかないですよね・・・

 

 

 弥彦山方面にカメラを向けると、横田切れの破提箇所(右下の交差点)が見えてきます。

 

   

 

 横田切れは、明治29(1896)年7月22日に発生しました。

 横田(燕市横田)の信濃川堤防300mが切れ、 あふれ出た水は越後平野一帯に広がり新潟市関屋までの広い範囲が浸水し、被害面積は180km2、床下・床上浸水が合わせて43600戸で、そのうち家屋流出は25000戸と甚大な被害が発生しました。浸水は長期間にわたり、低い土地では11月になっても水に浸かったままで、 衛生状態の悪化に伴う伝染病が蔓延し、死者も多く出たと言われています。

 

 

 横田切れの惨事を二度と繰り返してはならないと、1909年大河津分水工事が本格的に動き出すことになりました。下の写真は大河津分水から新潟市側の信濃川本流を見たものです。

 

 

 3. 大河津分水路の全貌

 

 分水路工事の掘削土量は2880万m3にのぼり、開削工事中3度の地すべり事故やツツガムシ病(当時は風土病と言われていました)などで被害者が続出するなど、難航を極めることとなりました。着工から13年、当時の最新鋭の建設機械を投入して、延べ1000万人の作業員が従事した結果、1922年に初代自在堰が完成し通水を始めました。

 

 

 

 新潟県民は、平水時と洪水時における合流・分流を自由にコントロールできる「東洋一」の自在堰(ベアトラップ式)の完成を、大いに祝福したと言われています。これで安全安心が確保されたと・・・

 

 

 しかし、5年後にそれはもろくも崩れ去ってしまう・・・自在堰が基礎下部の空洞化により陥没してしまったのです。その結果、信濃川本流のほとんどの水が分水路に流れ込んでしまい、下流域へほとんど流れなくなってしまい、下流域の生活・農業用水や舟運に多大な影響を与えてしまいました。

 

 

 

 設計に問題があったと思われますが、自在堰陥没の一報を聞いた当時の青山士は「砂利を食べたからこんな無様なことになる」(手抜き工事)とはき捨てるように言ったと言われています。

 

 

 その青山士の指揮により、直ちに補修工事を開始し自在堰は撤去され、可動堰の工事が進められました。

 

 

 しかし、この工事中にも豪雨が襲いかかることになります。1930年8月20日に洪水の危機が迫り、工事の主任技官の宮本武之輔が下流域の洪水を回避するため、仮締切堤防を独断で破壊するという決断しました。その話は語り継がれており、分水資料館で詳しく知ることができます。

 

 

 

 様々な苦難を乗り越えて、工期を遅らせることなく1931年6月20日に可動堰が完成しました。この工事には、延べ124万人が動員されたそうです。

 

 

 1870年(1875年中断)から、洪水を防ぐために「山をぶち抜く」というとんでもない工事が行われいたというのは驚きです。横田切れ後の1909年から本格的に進められたこの工事、100年以上前にこの山を削って川を造るなんて・・・

 

 

 その後、1996年には本流側の堰である洗堰の更新工事に着手し、2000年5月29日に完成しています。

 

 

 しかし、まだまだ終わっていません。平成23年7月の洪水では、分水路直上流で計画高水位を超過して危険な状態となったようです。

 

 

 

 大河津分水路は延長約9kmの人工の放水路ですが、河口部は洪水を安全に流下させるための断面が不足しているそうです。確かに河口側の方が狭くなっていることが分かります。

 

  

 

 また、施設の老朽化・機能低下も顕著(分水路建設後90年以上)になってきており、国交省は、信濃川水系全体の洪水処理能力を向上させるため、最下流に位置する大河津分水路の改修に平成27年度に着手しました。分水路の幅を広げるという、これまた大工事です。

 

 

4. 分水路による影響

 

 信濃川下流域の水量が減少したことにより、流域の改修工事も進められ、新たな土地が造成され新潟の発展に大きな貢献を果たしました。しかし、土砂の供給が減った新潟市内の信濃川河口では海岸が浸食されて最大で400メートル後退し、各種護岸工事で食い止める必要が生じました。

 

 

 逆に、分水路から流れ出た土砂は、河口付近の海を埋めて砂浜を作り、陸地を広げていきました。陸化の幅は、完成から50年間で最大650メートルに達したと言われています。

 

 

 写真で見られる、この平たい部分が新たに発生した土地なのでしょうか?

 大規模土木工事と自然環境の変化を、後世に伝えていかなければなりません。何が正解かはわかりませんが、ドボク以外の様々な人に考えていただくことで、よりよい社会資本を残していくことが大切だと思っています。