攻殻機動隊シリーズのスピンオフ?になるのかな?
正式なシリーズになるのか分からないんですが。
「イノセンス」。
日本のアニメーションというやつはすごいですね。
監督:押井守
バトー:大塚明夫
トグサ:山寺宏一
クサナギモトコ:田中敦子
まさかのこれで大学のレポート書いたのは懐かしい話。
たしかコレに関してはそこそこの評価をもらえたような。
ネタバレにご注意くださいませ。
□■あらすじ■□
少女型のアンドロイド「ハダリ」たちが持ち主を殺して自分も死ぬっていう連続怪死事件を公安9課の刑事2人、トグサとバトーが追う、って話。
まぁ…まずこの世界観。
人間とアンドロイドが混在する世界。
この設定は結構よくある世界なんだけど、この「イノセンス」の世界はこの2種類しかいないわけじゃないのです。
人間も機械化していって、義手とか義体とか、電脳とか、半分以上アンドロイドみたいな人間がたくさんいる、と。だからまったく生身の人間から、手だけ強化してる、脳みそを電脳にして記憶力を補強してるって人、体の大半を機械化していってる人、人間がつくった、擬態とAIを搭載したアンドロイド=人形まで幅が広い。
でも人形はやっぱりメイドとして使われていたりする…みたい。
そもそもこの話は「攻殻機動隊」を知らないとわからん話なんですな。
そして私はこの攻殻機動隊、よく知りません。弟がゲーム持ってるぐらいです。なんかミッションをクリアするゲームって言ってたかな。
公安9課とか、セクサロイド、ガイノイドとか定義の解らない用語が多いわけです。
とはいえ、話の本筋としては見応えのあるものでして。
もちろん用語を知っていれば世界観や背景なんかもわかりますが、コレ単品で見ても楽しめる作品だと思います。
さて、この先は話のオチも書いたりするので見る予定のある人はご注意ください。
+++++++++++++++++++++++++++
話のテーマは「人形と人間」そのまま。
人間は生き物。
生身の体を持って、つまり刺されたら場所によっては即死もありえる。そして意志があって、意志を言葉で伝え合う生き物。
それがたとえば、近代化した社会において義手や電脳みたいな人工物、「生身」じゃなくなったとき本当に信じられるモノはなんなのか、って話。
生身は自分の神経が脳につながっているから殴られたら痛いし、悲しい出来事があったら涙がでるし、嬉しいことがあったら幸せだと感じる。
それだって結局は各部から送られる信号を脳が受け取った結果にすぎないんだけど、はたしてそれがすべて機械化して、本当の電気信号と化したときに、やってることは生身と変わらない、でも機械が送る信号は真実なのか、本当に信じるにたるものなのか、システムのバグやプログラムの一部として喜んでいるだけなのではないか、っていう不安にかられる。
すべてが電脳化や義体化すれば、汎用化してどこかで買った部品と取り替えることができる。
生まれ持った手や足を部品として取り替えれば、わたしは他の誰かとまったく同じフォルムの人間となることすらできるとき、私と他人を隔てるモノは何か?
何かあったから楽しい、ではなく、何かあったから楽しいと思えというプログラムによって喜んでいるのではないか、という不安がぬぐい去れなくなる。
「自分、とは誰なのか、何なのか」それを告げるたったひとつのものが「ゴースト」。
自分のゴーストを信じられるかどうか、それがこの世界での「自分」を見失わない方法。
この話でもひとつ基軸になるのは
子ども、動物。
「子どもは人間だが、人間ではない」
…人権無視とか危ない意味じゃないです。一応つけておきますが(笑)
大人、という生き物が「人間」だとしたら、子どもは人間ではない。
人間の形をした、とても動物に近い生き物、になる。
映画の中で検死官ハラウェイは「子どもは人間の形をしながら、人間の前段階のカオスに生きるもの」とし、動物を「無意識の世界に生きるもの」とした。
子どもは小さければ小さいほど、欲求に正直である。
世の中にはたくさんの作品がでまわっているけど、やっぱり子ども=無邪気さ、奔放さ、自由、無垢の象徴、また庇護されるべきもの、として描かれることが多い。
その欲求に正直な状態が「人間の前段階のカオス」や「無意識の世界に生きる」ということだとしたら。
「大人」とは。「人間」とは。
なんなのだろう?
この事件の結末は……大量生産されていた「人形」たちには、違法である「ゴーストのコピー」が使われていた。これにより人形達はより人間らしく動いていた。
そしてそのゴーストのコピーの元にされていたのが、さらわれた子ども達。
「人形にされたら意志をつたえられなくなる」
束縛されて人形にされていた子ども達が外に助けを求める方法として、思いついたのが「人形が事件を起こすこと」だった。人形が事件を起こせば誰かが助けにきてくれると思い、そのゴーストが結果として「持ち主を殺し自分も自殺する」という人形による連続怪死事件を引き起こした。
自分は誰なのか、それを唯一信じられるのが「ゴースト」
「私、人形になりたくなかったんだもん!!」
それが少女の意志で、彼女のゴースト。
ゴースト=アイデンティティ…みたいな感じ…かな。
自分が自分で在るための存在証明、同一性。
生身、電脳、動物、子ども、大人。
この狭間で、いったりきたりして本当に信じられる自分のアイデンティティとはなんなのか。自分とは何者なのか。
「私が私であることには驚くほどたくさんのコトが必要。過去への後悔や未来への希望、幼い頃の思い出、それだけじゃなくて電脳のなかにあるこれまでの膨大なデータやそれらの片鱗すべてがかさなって私という人格を作り上げてる」
と、失踪したクサナギモトコはこんなような内容を言ってる。…ゴーストインザシェルのセリフかな?
でもまぁなんか…これたしか攻殻機動隊シリーズの最終章とかって言ってた気がする。
ただ単に「クサナギモトコの行方」を描いてるだけのような気もするけど…。
ラブストーリーの要素も結構大きいと思います。
最終的にはモトコが助けにくるから。
この辺、割とベタな展開というか…まぁ普通は男女逆かもしれませんが。
とてもプラトニックな感じです。
彼らは電脳で義体だから、とバトー役の大塚明夫さんはゆーてましたが。生臭くならない、と。
守護天使からのメッセージ2501。
いつか再開するときの合い言葉。
この辺はとてもラブストーリー的な要素です。
いつだってモトコはバトーのそばにいて、そこにはループがあるんだとか。
…ループには1コしか気づけなかった。もいっかい最初から最後まで見てこようかなぁ…。
ぬー。
というわけでイノセンス。
あ、「イノセンス」→無邪気さ、らしい。犯人が子どもだから?
イノセンス=ゴーストなのかも。
そういえば。
映画のポスター「イノセンス、それはいのち」ってキャッチコピーついてたね。
ゴースト=イノセンス=本来は純粋であるべきもの
…かな。
子どもは自分が自分であることを疑わないと思う。
自分が自分では無いかもしれないと思う3歳児はそうそう居るまい。
「自分は自分ではないのかもしれない」と思い始めた瞬間から、<「自分」とはいったいなんなのか>という無限ループとも言えるの問いが始まるのではないか?
映画のなかでは結局物事のオチはラブストーリーのほうだけついて、この問いは明記されないまま象徴的なラストシーンで終わるケドね。
でも、AKIRAよりはわかりやすい!!!
AKIRAは正直ラストシーンまで見終わって…絶句。
なんだか…救いがなかった気がして。
でも「イノセンス」は人間であることを決して悲観的には書いてないと思う。
むしろすこしやわらかな気持ちになれるというか。
「人形になりたくない」というのが少女達のゴーストだとしたら。
「バトーを守ってあげたい」というのはクサナギモトコのゴースト。
電脳化と義体化を繰り返しているモトコは、実際は目の前に居たとしてもある意味死は迎えているのかも知れない。電子的な部品で出来上がっている彼女にはもうすでに生まれ持った肉体はほとんど存在していないから。
それでも「クサナギモトコである」と名乗れるというのはゴースト、つまりは心やアイデンティティがあるからで。
電脳と義体でバトーと一緒に仕事をしていたモトコと、4年後の今、バトーの前から姿を消したモトコ。
実は何一つ、状況に違いなんてないのかもしれない。
ゴーストがあればこその、「人間」で。
生き物の死とも、通じるところはあると思います。
しかし…これもまたAKIRAの影響を大きく受けてる作品じゃないかと思う。
たぶんあのイメージの近代都市を作り上げた最初の映画は「AKIRA」じゃないのかな?
「鉄コン筋クリート」のマイケル・アリアス監督もAKIRAに影響されてる、みたいなこと言ってたし…
なんか、パプリカの世界観もなんとなく近い感じがする。
AKIRAが世界に与えた影響って…こうゆうのなのかなぁ?
まぁ少なくとも「イノセンス」に関しては全編見た感じ、やっぱりAKIRAのネオ東京みたいな感じがした。
正式なシリーズになるのか分からないんですが。
「イノセンス」。
日本のアニメーションというやつはすごいですね。
監督:押井守
バトー:大塚明夫
トグサ:山寺宏一
クサナギモトコ:田中敦子
まさかのこれで大学のレポート書いたのは懐かしい話。
たしかコレに関してはそこそこの評価をもらえたような。
ネタバレにご注意くださいませ。
□■あらすじ■□
少女型のアンドロイド「ハダリ」たちが持ち主を殺して自分も死ぬっていう連続怪死事件を公安9課の刑事2人、トグサとバトーが追う、って話。
まぁ…まずこの世界観。
人間とアンドロイドが混在する世界。
この設定は結構よくある世界なんだけど、この「イノセンス」の世界はこの2種類しかいないわけじゃないのです。
人間も機械化していって、義手とか義体とか、電脳とか、半分以上アンドロイドみたいな人間がたくさんいる、と。だからまったく生身の人間から、手だけ強化してる、脳みそを電脳にして記憶力を補強してるって人、体の大半を機械化していってる人、人間がつくった、擬態とAIを搭載したアンドロイド=人形まで幅が広い。
でも人形はやっぱりメイドとして使われていたりする…みたい。
そもそもこの話は「攻殻機動隊」を知らないとわからん話なんですな。
そして私はこの攻殻機動隊、よく知りません。弟がゲーム持ってるぐらいです。なんかミッションをクリアするゲームって言ってたかな。
公安9課とか、セクサロイド、ガイノイドとか定義の解らない用語が多いわけです。
とはいえ、話の本筋としては見応えのあるものでして。
もちろん用語を知っていれば世界観や背景なんかもわかりますが、コレ単品で見ても楽しめる作品だと思います。
さて、この先は話のオチも書いたりするので見る予定のある人はご注意ください。
+++++++++++++++++++++++++++
話のテーマは「人形と人間」そのまま。
人間は生き物。
生身の体を持って、つまり刺されたら場所によっては即死もありえる。そして意志があって、意志を言葉で伝え合う生き物。
それがたとえば、近代化した社会において義手や電脳みたいな人工物、「生身」じゃなくなったとき本当に信じられるモノはなんなのか、って話。
生身は自分の神経が脳につながっているから殴られたら痛いし、悲しい出来事があったら涙がでるし、嬉しいことがあったら幸せだと感じる。
それだって結局は各部から送られる信号を脳が受け取った結果にすぎないんだけど、はたしてそれがすべて機械化して、本当の電気信号と化したときに、やってることは生身と変わらない、でも機械が送る信号は真実なのか、本当に信じるにたるものなのか、システムのバグやプログラムの一部として喜んでいるだけなのではないか、っていう不安にかられる。
すべてが電脳化や義体化すれば、汎用化してどこかで買った部品と取り替えることができる。
生まれ持った手や足を部品として取り替えれば、わたしは他の誰かとまったく同じフォルムの人間となることすらできるとき、私と他人を隔てるモノは何か?
何かあったから楽しい、ではなく、何かあったから楽しいと思えというプログラムによって喜んでいるのではないか、という不安がぬぐい去れなくなる。
「自分、とは誰なのか、何なのか」それを告げるたったひとつのものが「ゴースト」。
自分のゴーストを信じられるかどうか、それがこの世界での「自分」を見失わない方法。
この話でもひとつ基軸になるのは
子ども、動物。
「子どもは人間だが、人間ではない」
…人権無視とか危ない意味じゃないです。一応つけておきますが(笑)
大人、という生き物が「人間」だとしたら、子どもは人間ではない。
人間の形をした、とても動物に近い生き物、になる。
映画の中で検死官ハラウェイは「子どもは人間の形をしながら、人間の前段階のカオスに生きるもの」とし、動物を「無意識の世界に生きるもの」とした。
子どもは小さければ小さいほど、欲求に正直である。
世の中にはたくさんの作品がでまわっているけど、やっぱり子ども=無邪気さ、奔放さ、自由、無垢の象徴、また庇護されるべきもの、として描かれることが多い。
その欲求に正直な状態が「人間の前段階のカオス」や「無意識の世界に生きる」ということだとしたら。
「大人」とは。「人間」とは。
なんなのだろう?
この事件の結末は……大量生産されていた「人形」たちには、違法である「ゴーストのコピー」が使われていた。これにより人形達はより人間らしく動いていた。
そしてそのゴーストのコピーの元にされていたのが、さらわれた子ども達。
「人形にされたら意志をつたえられなくなる」
束縛されて人形にされていた子ども達が外に助けを求める方法として、思いついたのが「人形が事件を起こすこと」だった。人形が事件を起こせば誰かが助けにきてくれると思い、そのゴーストが結果として「持ち主を殺し自分も自殺する」という人形による連続怪死事件を引き起こした。
自分は誰なのか、それを唯一信じられるのが「ゴースト」
「私、人形になりたくなかったんだもん!!」
それが少女の意志で、彼女のゴースト。
ゴースト=アイデンティティ…みたいな感じ…かな。
自分が自分で在るための存在証明、同一性。
生身、電脳、動物、子ども、大人。
この狭間で、いったりきたりして本当に信じられる自分のアイデンティティとはなんなのか。自分とは何者なのか。
「私が私であることには驚くほどたくさんのコトが必要。過去への後悔や未来への希望、幼い頃の思い出、それだけじゃなくて電脳のなかにあるこれまでの膨大なデータやそれらの片鱗すべてがかさなって私という人格を作り上げてる」
と、失踪したクサナギモトコはこんなような内容を言ってる。…ゴーストインザシェルのセリフかな?
でもまぁなんか…これたしか攻殻機動隊シリーズの最終章とかって言ってた気がする。
ただ単に「クサナギモトコの行方」を描いてるだけのような気もするけど…。
ラブストーリーの要素も結構大きいと思います。
最終的にはモトコが助けにくるから。
この辺、割とベタな展開というか…まぁ普通は男女逆かもしれませんが。
とてもプラトニックな感じです。
彼らは電脳で義体だから、とバトー役の大塚明夫さんはゆーてましたが。生臭くならない、と。
守護天使からのメッセージ2501。
いつか再開するときの合い言葉。
この辺はとてもラブストーリー的な要素です。
いつだってモトコはバトーのそばにいて、そこにはループがあるんだとか。
…ループには1コしか気づけなかった。もいっかい最初から最後まで見てこようかなぁ…。
ぬー。
というわけでイノセンス。
あ、「イノセンス」→無邪気さ、らしい。犯人が子どもだから?
イノセンス=ゴーストなのかも。
そういえば。
映画のポスター「イノセンス、それはいのち」ってキャッチコピーついてたね。
ゴースト=イノセンス=本来は純粋であるべきもの
…かな。
子どもは自分が自分であることを疑わないと思う。
自分が自分では無いかもしれないと思う3歳児はそうそう居るまい。
「自分は自分ではないのかもしれない」と思い始めた瞬間から、<「自分」とはいったいなんなのか>という無限ループとも言えるの問いが始まるのではないか?
映画のなかでは結局物事のオチはラブストーリーのほうだけついて、この問いは明記されないまま象徴的なラストシーンで終わるケドね。
でも、AKIRAよりはわかりやすい!!!
AKIRAは正直ラストシーンまで見終わって…絶句。
なんだか…救いがなかった気がして。
でも「イノセンス」は人間であることを決して悲観的には書いてないと思う。
むしろすこしやわらかな気持ちになれるというか。
「人形になりたくない」というのが少女達のゴーストだとしたら。
「バトーを守ってあげたい」というのはクサナギモトコのゴースト。
電脳化と義体化を繰り返しているモトコは、実際は目の前に居たとしてもある意味死は迎えているのかも知れない。電子的な部品で出来上がっている彼女にはもうすでに生まれ持った肉体はほとんど存在していないから。
それでも「クサナギモトコである」と名乗れるというのはゴースト、つまりは心やアイデンティティがあるからで。
電脳と義体でバトーと一緒に仕事をしていたモトコと、4年後の今、バトーの前から姿を消したモトコ。
実は何一つ、状況に違いなんてないのかもしれない。
ゴーストがあればこその、「人間」で。
生き物の死とも、通じるところはあると思います。
しかし…これもまたAKIRAの影響を大きく受けてる作品じゃないかと思う。
たぶんあのイメージの近代都市を作り上げた最初の映画は「AKIRA」じゃないのかな?
「鉄コン筋クリート」のマイケル・アリアス監督もAKIRAに影響されてる、みたいなこと言ってたし…
なんか、パプリカの世界観もなんとなく近い感じがする。
AKIRAが世界に与えた影響って…こうゆうのなのかなぁ?
まぁ少なくとも「イノセンス」に関しては全編見た感じ、やっぱりAKIRAのネオ東京みたいな感じがした。