夏には丁度いい気もする、
ドライ、クール。
私も、「若いころは」などという歳になった。
人へ情熱を注ぎ、
ぶつかり合ったその結果、
人に振り回されている事を自覚し、
自分自身に立ち返った。
「人は人」だと。
社会は人でできている。
一人でできることなど限られている。
だからこそ、言葉があり、そこに想いがあり、
そしてコントロールする理性が、そこにはある。
それがあるからこそ、個人ではなく団体、グループとしての活動、成果が成立する。
一人では成し得ない事の達成が見える。
私は、想いを理性でコントロールできない事を蔑視した。
そういう人間との関わりを割り切った。
私に意思があるように、他人にも意思があり、
それは必ずしも両立できるとは限らない。
もしくは、衝突しない保証はない。
互いのニーズがストレートに満たされないことがある。
かといって、それをそのまま主張し、貫き通せばよいというものではない。
そこに、互いのニーズを満たす方法がないか相談する余地がなければ、
「なら一人で勝手にやりなさい」ということになる。
私は、それに同意する。
そして他人にも、自分自身にもそう求める。
やりたいようにやりたければ、
一人になって、気が済むまでやればいいのだ。
一人でできるなら、人は必要ない。
一人でできないなら、自分の要求のみ満たすことを考えず、
頼むということ、頭を垂れること、Win×Winの法則を適用すること、
それらは必要だ。
・・・当たり前かもしれないが。
それができない人間とぶつかることが多い環境下においては
改めて認識せざるを得ない。
以前は真正面からぶつかっていたものが、
今はもう避けたい事。
・・・避けて通れないこともあるにせよ。
今なら、「友を選ぶべき」という言葉も理解できる。
・・・あまりこういう考えは好きではないのだが。
そうして、淡々と生きていく中、ふと思う。
この先は、一人の道なのか、あるいは新たな人たちとの出会いへの道なのか、と。
暑い日ざし、吹く風、空気の中、ここにあって、どこかへ行く存在。
何も持たず、ただこの風に、時に、今というこの瞬間に、
ふと、「ただ純粋に、らしくあればいい」と思った。
それは何かと意識的に、そして不器用に、
意味を求め、答えを探し、確かめようと足掻く私たち人間、
それらを笑うかのように。
風のように、水のように、音のように、日差しのように、雨のように。
ただそこに在ればいい。
そう在り続けることは、社会に生きる人間としてはただの理想で、不可能な話。
それでも、そう、「ただそこ在ること」、それだけの瞬間は、
なぜか赦され、全てに受け入れられている気がした。
これが本当の、幸せではないかと思うほどに。
犬も歩けば棒にあたる。
ぶつかるって事は、
歩いてる証拠だろ。