以前、「癒し系男子」と類似してだったか、「スイーツ系男子」と言うものは見かけたが。
新たに、「雑食系男子」と言うものを発見。
第8回 肉食系男子の落とし穴(1)
特に自分自身をカテゴライズしようとは思っていないものの、
この記事には共感させられた。
肉食だけでも、草食だけでも生き延びられない。
それが今の世の中ということだろう。
実際、衣食住に困る生活ではなく、
娯楽もそれなりに楽しめる生活。
世間を見渡しても、
「美味しいもの」「面白いもの」に溢れている。
そうして、価値観が多様化し、美味しいものも、面白いものも、安易に手に入る時代。
それでも、人、ひとりひとりが自分の価値観を貫き通す事は難しい時代。
私は、人としての罪を犯さない限りは、
一人一人の人間が、十人十色の価値観を持っていていいと思うのだ。
自由な表現を認め、それが誤った方向に向かないよう見守りさえすれば。
それが、行き詰まった社会に、すっと風穴を開けるようなきっかけになりうるかもしれない。
だが、やはりまだまだ、今の時代、多くの人間が大多数の価値観に依存し、
少数派を否定する。
そうすることで自分を守り、環境が変わらないことを望んでいる。
そういう社会で、まして現在の日本の経済的不安定さの中では、
少数派でありながらその意見を主張することのリスクが大きすぎる。
だから、彼らは口を噤む。
そして、それを「草食系」と揶揄する人々に対し、「自ら動こうとしない草食系とは違う」と思いながらも、
周囲の無言の重圧から、それこそ苦い草を食わされる事だろう。
安穏とした人生なら、
それなりに仕事をし、分相応な趣味でも見つけ、いつも変わらず過ごしていれば、
そう大きく変わることなく、人生を全うできるだろう。
少なくとも、この社会が真っ当に機能する限りは。
ただ、私は私自身に問う。
「それが本当に悔いのない生き方か」と。
私が明日にでも事故で死んだとしたら。
もう、そもそもの「私」という存在が消えてしまうのだから、
何も感じることはなくなるし、満足も不足も感じず、またそう思うこともない。
もしも人が死んで、
何もかもが無になるとしたら。
私は、今のうちに手の届く限りの物事を感じてみたい。
良いものも、悪いものも。
無を基点に考えたとき、
不思議と善悪は等価なのだ。
いずれも、そこで気付きさえあれば、新たな自分を見出すステージであることに変わりはないのだから。
表面上、この国は穏やかかもしれない。
でも、私としてはどこか危機感を感じざるを得ない。
個人の資産、雇用、生活、
それらの保証を、私のような一小市民に「必ずできる」といえるだけのものは何もないのだから。
少し話がそれたところもあるが、
それらから、確かに私は「肉食か、草食か」といった価値観を理想から入って決める前に、
雑食系のように、まずは「生き延びること」に重きを置き、
多様な価値観に過度の迎合も反発もせず生きていくことが好ましく思えた。