4日間の休日は、思い通りに運んだ。
思い出した、呼び起こす自由。
呼び起こすには、日常からの脱却が必要。
行き詰まったとき、必要なのはより掘り下げることではなく、
その状態からの開放。
それもひとつの手段。
視点を変え、より広大な視点から見ることができる位置に立つべき。
案外自分が、小さなことに囚われていることに気がつく。
自己の客観視。
俯瞰した自身の立ち位置から、求められている姿を把握し、構築することも可能。
そして、そこからこそ、自身の新たな方向性を定めることができる。
悲しくも日常、この世界にただ、生きていては様々な負を背負い、蓄積されていく。
時に、それを洗い流し、急ぐことなく自然に、自らの中の光が輝き出すのを待つ必要がある。
relax.
「今」「ここ」にありながら、その中で生きるのではなく、
その場所、その時と共に生きる。
ここにありながら、視点は遥か上空。
そのような視点も必要なのだと理解した。
ただ、それだけでは心は、命は宿らない。
行動に、言葉に、想いに。
今日一日の仕事を手に取り見てみる。
1割は当初私が予定していた仕事だった。
残りの9割は、今日、急遽飛び込んできた仕事だった。
予測がつかない日々。
それらに埋もれることなく、心のゆとりを維持し、的確な指示、行動を行うには、それ相応の集中力が必要。
そんなことを思っていれば、ふと自身の感覚が、
感受性が麻痺していることに気がつく。
なんの目的も必要ない、ただのコミュニケーションに、フォーカスが合わない。
人の心の動きを、読むことができない。
これもまた、別の視点が必要なのだ。
このように様々な場面において、
適切な自分であり、かつ本来の自分を見失わないバランスが必要。
自身を日常から解放し、自然に自身の中の光が輝き出すのを待つ時。これを「静」とするならば。
その開放された状態から目を開き、広大な視点から物事を把握することを「観」とし、
自身を見失うことなく、かつ求められる自身により言動を成すことは「動」であり、
その能動的な状態ではなく、受動的になり、繊細なものを読み取る事を「感」としよう。
また、これらのすべてのステージにおいて、必要なのは「concentrate」集中である。
いずれの状態においても一長一短あり、これらを必要に応じて使い分ける必要がある。
そのように感じた。
言葉にすれば理屈っぽく、難しいようにも思える。
しかし、人は環境や周囲に影響され、この舵取りを誤る。そして見失う。
それにより迷うことがあるのであれば、ある程度系統立て、管理してもいいのではないかと思った。
また、これらのステージにおいて、十分な成果を得るには、上に記した徹底したスタンスが必要なのではないか。
要は、メリハリ、でもある。
これは仮説だてたひとつの指針ではあるが、
より良い状態を作る為に、試みる価値はあると感じた。
無論「集中」と言えるべき精神力、持続力が必要であることも忘れず書き加えておく。