思い出した。
私にも師と仰ぎたい人がいたこと。
「変わることは格好悪くなんかない。
めちゃくちゃ格好良いことだ」
その人の妻になった人には、
「あなたは素敵な人だから」
そうも言われた。
その思いを裏切りたくない。
まだ変われるはずだ。
今一度、あの人の言っていた言葉を呼び起こす。
前より少し深く、理解できるようになった私は、
あの頃の貴方に、少しでも近づけた気がします。
思い出した。
私にも師と仰ぎたい人がいたこと。
「変わることは格好悪くなんかない。
めちゃくちゃ格好良いことだ」
その人の妻になった人には、
「あなたは素敵な人だから」
そうも言われた。
その思いを裏切りたくない。
まだ変われるはずだ。
今一度、あの人の言っていた言葉を呼び起こす。
前より少し深く、理解できるようになった私は、
あの頃の貴方に、少しでも近づけた気がします。
今日本において空腹で飢え苦しむ人というのは少ない。
食べるものを選ぶことができるくらいには、この国は富んでいるように思う。
しかし、心の空腹に対してはどうだろうか。
生きがい、愛情、協力。
達成感、安心感、共感。
私が思うに、孤独が増えているように思う。
未だ旧世代の、統一した価値観をもとに作られたコミュニティでは特に、「人と違う」ということを理由としての「差別」が多い。
多様な価値観はすでに認められているはずなのに、未だ、人は変わらない。
特に、企業に勤める、雇われている人間からすれば特に、その傾向を強く感じることが多いだろう。
従来、企業というものは従業員を一定の方向に導き、目標を達成してきた。
そこには、多様な価値観は認められず、常に会社のニーズに応える必要がある。
これまで、それを当然のごとく受け入れてきた世代にとって、それは今更疑問に思うことなどないことだろう。
しかし今、本当に身も心も企業に捧げられる人間はどのくらいいるだろうか。
多くの人が、ただ「生活をするために」お金を稼いでいるに過ぎないのではないだろうか。
そして、より多くを稼ぎたいと思うのならば、自らの価値観や信念を曲げてでも、企業に従属しなければならない。
本当に、その生き方に疑問はないのだろうか。
私は今、大いに疑問を抱いている。
なぜなら、自らの中にそれで満たされないものを感じるからだ。
そうはいっても企業も人でできている。
関わりの中でそれらが満たされることもある。
しかし、自らの中の警鐘が鳴りやまない。
「本当にそれが、自分の人生をかけてやりたいことか」
答えはNOだった。
企業は、特定のものを除き当然ながら営利団体である。
利益こそが最大の目的だ。
いくら付加価値を掲げようとも、
利益がなければ潰れるのだから、
金にならないことは徹底的に排除するのがセオリーだ。
企業に心から従属するということは、
その考え方にも従属しなければならない。
私はそれを望まない。
ではどうしたいのか。
それは頭で考えるものではなく、感じるものだ。
すなわち、自らの心に問いかける必要がある。
何が満たされていないと感じるのか。
どうすれば、この空腹はおさまるのだろうか。
心というものは実に不安定だ。
環境に左右され、高い"ゆらぎ"を持ち、
一時的な衝動によって突き動かされる。
しかし、幼少期から変わらない心もある。
忘れられない、何年経ってもこれは変わらないということがある。
言うなれば"センス"、感受性だ。
後天的に植え付けられた感情もある。
しかし、着目すべきは、可能な限り先天的な感情だ。
何を見て、どう感じるか。
それこそが、自分自身を駆り立てる目的のヒントになる。
ただただ生きるための"仕事"をするのではなく、
ただ、それが自分の生まれてきた目的であるかのように、
自分自身の"使命"ともいえるものがある。
恥ずかしさから押し殺したもの、
稼ぎにならないからと諦めたもの、
夢を描いて挫折したこと。
本当に、それらは大切ではなかったのだろうか。
捨ててしまってもよかったのだろうか。
本当は、それこそが生きがいになるのではなかったのだろうか。
今一度、自らを省みる。
新たな目標を探すために。
そうだ。
私は今、流れ込んでくる愛を表現するために存在する。
この体、心、精神、全てその一つの目的のためだけにあれ。
君のためになら。
休める木陰となり、
温める日差しとなり、
清める水となろう。
ここで自らに問う。
望まれるなら、人たることを捨てられるか。
ここで貴方に問う。
貴方は人を求めるか。
堰は切られた。
大きいものも小さいものも、
全て飲み込みながら一つの方向性へと。
神の意図などないはずなのに、
なぜか、多くのことが示すメッセージが、
ただ一つの先を示している。
今はその流れに身を任せ、
むしろ私自身が流れそのものになろう。
人を羨むことなどここしばらくなかった。
本当に、強くその相手に興味を持つことなど久しかった。
今に至ってそれを強く感じるのはきっと、
本当は自分がそうありたかった姿だから。
気が付けば、やりたくもないことばかりやってきた。
自分が生きるために、誰かの為に。
未だに、旧友の言葉が浮かぶ。
「やりたいことをやりたければ
やりたくないことをやらなきゃいけなくて、
やりたくないことをやっていたら、
やりたいことができなくなる」
この言葉に尽きる。
だが、本当にそうだろうか。
本当に、自分のやりたいことをひたすら探求すれば、
それは一つの芸として確立できるのではないか。
私は、社会に出て周囲のニーズに応えようとするうちに、
「何でも屋」になった。
広く浅く、様々な知識を求められ、
悪く言えば当たり障りがなく表面的な、
よく言えば汎用的な使い勝手のいい物事を手にしてきた。
それでも人に感謝され、
多少なれど重宝されてきたがゆえに、
何年もそれで生きてきた。
でもここに至って益々、自分というものが分からなくなった。
何が好きで、何が大切で、
何のために生きて、何を願うのか。
それらに純粋に、正直に生きる姿を、
自分よりはるかに自由な生き方を、
私は心底羨ましいと思ったのだ。
こんなにも雁字搦めな自分を捨てて、
楽しいと思うことを楽しんで生きたいと心底思ったのだ。