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エンジェルエンジェルエンジェル : 梨木香歩


今年の新潮文庫の100冊(カテゴリーは現代文学)。
ということで、「エンジェルエンジェルエンジェル」を、手にとってみた。

ところで、

現代文学はいつまで「現代」の枠にあり、いつから「古典」になるのか?

いや、そもそも「文学」の定義はなんだろう。

よくある疑問だけど、誰か答えをしってますか?


さて、この作品は、受験をひかえた女子高生が、寝たきり一歩手前の祖母との真夜中の交流(トイレ介助)をはじめる偶然から、「人生の痛み」を非現実感を感じながらに「共有」する。

・・・というストーリーだ。

祖母の痴呆の症状は、現代に浮上した悲しい現実であるのだが、痴呆による祖母の回想=(イコール)祖母自身の少女時代の世界を、物語のもうひとつの軸にもってきている。

その世界は、旧かなづかいで語られ、祖母自身が少女となり、その祖母(主人公の祖母の祖母)との交流が描かれている。

この二重構造の物語の中で、「傷つけることの痛み」を、主人公少女時代の祖母は体験し、読み手とも共有するという構造をとっている。


真夜中に重ねられる主人公と祖母の女子高生同士のような会話は、ある意味ファンタジーだ。
そこに重みを感じることは出来ない。いったい、どのへんの世代に読ませたいのか?
私がオヤジなだけか・・・?



タイトルにある「エンジェル」は熱帯魚をさし、テトラの殺戮者として描かれる。天使の名を持つ殺戮者は何かの象徴に思えたことを付け加えておく。

世の中には、結構いろんな家族構成が存在すると思う。
家族という単位に「祖母」という存在はどう映るのだろうか。
近くて遠い存在か、遠くて近い存在か。

読み手の家族構成によっても、この作品の解釈は大きな差が生じると思う。
私自身は、次男の長男であったが、他の人は、うける印象は異なるのではないだろうか。
あらためて家族の単位を考えさせられた。

写真学生 : 小林紀晴

「写真学生」小林紀晴 写真家。1968年長野生まれ。

「1986年、東京。
 僕は、初めてのカメラを買った。」


文庫本の帯には、こうあった。

実はこの小説もコミック化されている。
というか、コミックから読んだ。

この作品は、青春小説と呼ぶにふさわしい。(力が入るのは、僕が同世代だからだ)

タイトルのとおり、この本は写真家「小林紀晴」の写真学生時代の自伝的青春小説である。

小林紀晴が写真家としてスタートを切るのは、新聞社をやめて、アジアへの旅を作品として残していくことからはじまる。デビューは「ASIAN JAPANES」である。

この作品は、一連の小林作品と同様に、規則正しくショートストーリーを丁寧にまとめた形になっている。基本的に、章のはじめにタイトルとあわせて、小さな写真が挿入されている。

僕は、小林と同世代なので、この小説の青春ぽさに、ひたひたに浸ってしまった。
気がついたら、鍋のそこにいて、とろ火でことこと煮込まれてしまったようだ。

正直、それまで小林作品は読みやすいとは思えなかった。ちょっと、理屈ぽいし、旅=写真家のイメージの作品に対し、気取っているように感じていたからだ。すでに帰国しているはずだが、2年ほど前からは、NYに行っていることもそういったイメージを増長させていた。
なので、この作品がなければ、小林紀晴そのひとにも(こんなに)興味をもつことはなかったと思う。


彼は、諏訪から東京に出てきて、東京に違和感を覚えながらも、写真を通して自分自身をさがそうとする。
この作品で描かれるのは、そんな彼の青春時代だが、実際には彼が自分自身と出会うことができたのは、アジアへの旅の中においてだ。旅によって削ぎ落とされていった自分と出会うことで、彼は写真家として歩みをすすめていくことが出来た。この本は、そんな彼のルーツといえる。

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Paradise Kiss/パラダイス キス : 矢沢あい

全5巻の、ファッション誌「Zipper」で大反響だったファッションマンガ(そういうカテゴリーがあればだが)。

主人公の高校3年の女の子が、ある出会いから、自分自身を探し始め、恋愛とモデルという自分の道をさがしていく。という話。(どっかで聞いたようなはなしだけどね。)

文庫のタスキには「自分の可能性を信じなきゃ」とある。

すでにオヤジ世代の私にしてみると、最近の若者にもこの言葉が響いてほしいと思うのであった。

自分の生き方、可能性を、かなり夢いっぱいに描いている。読んでいて非常に楽しい。
作者は「NANA」の矢沢あいで、この作品のほうが、絵が少女漫画していて好みだ。

実は私も若いころは、ファッションの世界というか、アパレル業界にあこがれていた時期があった。
ファッション通信を毎週欠かさず見ていたこともあったのだ。ギャー(恥っ!)

GO : 金城一紀

金城一紀の「GO」を読んだ。

<在日>を要素に取り入れ、人間の存在を問いかけてくるような小説だった。

この本を手にしたきっかけは、家内からの「おすすめ図書」として話しにでてきたことだった。
はずかしながら、作品も作者もまったく知らなかった。
こうしたものの好みが、まったく家内と異なる僕は、守備範囲外と思っていたのだ。
しかし、タイトルが頭に残っていたので、漫喫で手を伸ばすことになったのだ。

そうマンガ版を先に読んだのだ。5巻ぐらいまであったと思う。(同じものとは知らずに読み始めた・・)
その後、小説も家内から借りて読んだ。
作品を比較してみると、若干設定や表記、表現が違うのだが、マンガも小説も作品としてよく出来ていた。

読んでみると自分の中で「反応する」シーンが何箇所かあり、非常に気になる作品となった。

小説の裏書には、「・・・感動の恋愛小説。直木賞受賞作。」とある。

しかし、「恋愛小説」って言われても、こまるところである。この作品を読んだ人の何%が「この小説は恋愛小説です」と言えるのだろうか?すごく疑問だ。

たいていの優れた小説は、複数の要素から構成され、バランスをとっている。

「作品には、『決定的な要素』がいくつか必要だ」

映画でもそうだし、写真でもそうかもしれない。小説の場合、文字の塊になっているので、読んだ人にとって、それを自分の言葉に置き換えるころ(カプセル化)が非常に簡単だ。マンガの場合は、ビジュアルだし、より自分の言葉に置き換えやすい。

今改めて思う2つの「GO」の印象は、小説「GO」は「僕小説」。マンガ「GO」は「オレマンガ」といった感じ。ふたつの作品は同じラストシーンを迎え、同じタイトルロールが流れるような感じだ。(もちろん、物語の結末がすべてではないけど。)

マンガにだけあるシーンなのだが、

「『差別するな』と言う人がいるかぎり、差別はなくならない。」

と父親が語るシーンがとても印象に残った。

できればムカつかずに生きたい(2) : 田口ランディ

(この記事は僕のもうひとつのブログ「Prism3」で一度公開したに加筆したものです。)

No.2 「ひきこもり心象風景」

「田口ランディ」という人を語る上で、「ひきこもり」というキーワードは、関係を断ち切ることができないほどからみついてしまった。

「ひきこもり」という言葉の持つ意味は、「オタク」の進化型であるように捕らえられがちであるが、あたっているともいえるし、外れているともいえる。
 あの「宮崎勉」の事件直後に報道された彼の部屋のイメージにより、「オタク」のイメージは一般言語化されてしまった。そして社会は、より「特異性」を求め「ひきこもり」という言葉も一般言語化してしまった。
「ひきこもり」=「オタク」という一般認識が広がってしまった。


しかし、ひきこもりといっても、いろいろある。たとえば

・現実世界に適合できず、閉じられた内面世界の中でのみ生活するもの。
・現実世界や人間関係に恐怖を感じ、外にでられなくなったもの。
・怠慢や無気力が原因で、外界に興味を失うもの。
 
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この章はエッセイと呼ぶにはあまりにも驚愕な事実に基づき書かれている。
田口ランディを知る上で、避けて通れない部分である。

しかし、それが彼女の全てではないことも当然の事実だ。

人間はもっと複雑で狡猾だ。

彼女が語る、彼女の兄=Tの死にいたるまでの家族史ダイジェストは、ふつうにはありえない世界だと思う。
しかし、他の多くの家族と同様に、Tの家族にも、家族の役割が存在したことが理解できる。
しかし、この家族は、「暴力」「社会とのずれ」、そして「死」と言った「異質エネルギー」の渦の中にあったこともわかるのだ。

Tはけしてオタクではなかったようだが、ひきこもりであった。
「異質エネルギー」のスパイラルは、Tがひきこもりだったせい、だけではないように思う。父も母もランディでさえも、パズルのようにそのスパイラルに組み込まれていた。
ただし、それは決して組合わさらないジグソーパズルのような異質な家族だったと思う。
 
 
 
父は海の男として、一般社会と長い間断絶してきた。酒を飲むとひとがかわってしまう。

母はそんな父に逆らえず、泣いて暮らしてきた。その反動で、自立できない息子を子供あつかいしつづけた。彼女は子離れすることができない。

妹は早くから自立したが、それは家族への精神的断絶を表したものだった。自立した人生の中で得た、心理学はじめとした多くの経験が、逆に、家族それぞれの心の襞(ひだ)を見えずらくさせたかもしれない。

そして、T
社会に適合出来ずに、家を出たり、もどったりをくりかえし、社会、いや人生への希望をしだいに失なっていく。そして、ひきこもるようになる。

妹はTの自立の手助けをするためにカウンセリングをはじめる、いくらか回復の兆しがみえはじめたある日・・・

・・・Tは失踪する。
 
 
そして「死」

それを、ランディの「過信」とは、だれも責められないと思う。
 
 
 
 
 
ランディさん

「特異性」は、僕の周りにもたくさんころがっているよ。

もうすでに渦に巻き込まれているのかもしれないと思う。
でも、あなたの「痛み」を少しでも知ることができたら、可能性が広がると思うんだ。
だから、僕は自分のことをもっと知りたいんだ。
 
 
 

ブログのこと

昨日までの二日間の休日は、うまくリフレッシュできたと思う。

ところで、家内から、ブログに急に熱心になった。といわれ、ちょっと自分でも驚いた。

そうかもしれない。
パソコン通信にちょっとアクティブだった経験が、下地になっているのだと思うが、悪い虫がうごきだしたのかも。

自分ではパソコンやインターネットは「もう卒業」と思ってたのに。(ここで言うのは道具と趣味の差。仕事でパソコンは使わざる得ない。写真のプリントも道具という認識。写真は趣味だけど、プリントは好きでやってるわけではない。)

趣味「写真」の延長線上に「表現としてのパソコン」を見つけたということだ。
インターネットの世界と言うのは、匿名性があり、不透明で、同じ趣味でもなければ、分かり合えないというか・・・
(逆を返せば、趣味ぐらいで人を信じてしまうのも少し怖い気もするが・・・)

そんなバーチャルな(非現実性)世界に対し、表現してみようと本気で考えはじめている。

できればムカつかずに生きたい : 田口ランディ

(この記事は僕のもうひとつのブログ「Prism3」で一度公開したに加筆したものです。)


「できればムカつかずに生きたい」
田口ランディ

この26のエッセイが書かれた本に対する自分の考えは、うまく纏めることが出来ない。

それは、物語というフォーマットにのっていない為、本の中に埋没しながら読むことが出来ないし、常に自分の頭で考えないとならなかったからだ。

そう

このエッセイは、「問題提起」であり、その問題の「手引き」であり、「論説書」である。
そこには、「問題を考えている自分」がいて、「客観視する自分」がいた。

正直に言えば、この一連の田口ランディ作品がなければ、ブログなど書いてみようとは思わなかった。
写真の発表ということでブログを上げている人は結構いるけど、僕にはしっくりこない「表現方法」だと思っていた。
(つまり、写真の公開=WEBというスタイルが自分らしく感じられなかった。現在は、ちょっとした写真展も経験して、また考え方も変わってきたが・・・)

僕は、「表現方法」ということに興味をもったのだ。

ブログは、それに合っているのか?答えはこれからだ。
 
 
 
 
 
No.1「十七歳の頃、なにをしてました?」
僕のことを言えば、ちょうど高校2年生だから、「自分の殻を脱ぎ捨てる」まさにその瞬間だったことが、思い出される。

中学時代に堆積した劣等感は、「高校演劇」という突如現れた「変身ツール」によって一新された。僕の周りの世界までも変わっていった。

クサイ言葉だが「かがやいていた」。自分も「かがやけるんだ」と思った。

その場所は、舞台の上だった。

(えーん、書いてて結構はずかしいよー)

・・・中学に上がる前からかけていた眼鏡をコンタクトにかえたのもこのころだった。

演劇に没頭する一方、小説やマンガを手当たり次第に読んだ。尾崎豊の曲に出会ったのもこの頃だ。

普段の自分は、集団の中では目立たぬようにつとめ、自分の世界を積み重ねること力をそそいだ。


自分をかえることに、一生懸命だった気がする。


中学の時に感じていた「既製品の中のひとつ」をいう感じを感じることはもうなかった。




ランディさん

あなたの高校時代とくらべるとまだまだ子供だったと思うよ。

私立の学費が非常に高いことを知って、親に申し訳ないと思ったが、「現実」と「妄想」の間の掛け橋をかけるのに忙しくて、大人のことを意識する余裕なんてまるでなかったんだ。