気仙沼で被災した友人に会ってきました。
気仙沼で被災した友人に会ってきました。
彼は某高校野球部に所属しているのですが、その野球部の練習中に被災したそうです。
野球場が山の中にあるので、被害は地震だけで津波が来るところは見ていないんだそうですが
色々と衝撃的な話をしてくれました。
まずM9.0の地震が起きた時、最初小さな揺れ(初期微動)を感じ
「お?地震か?」と思った次の瞬間大きな揺れが来たそうです。
ホームベース裏の大きな金網が揺れ、自分がいたベンチの目の前で地割れが起きたんだとか。
とっさに地割れを避けようとしたものの動けず。
何もできない中、友人と『何だよこの地震』とか言いながら笑うしかなかったと言っていました。
そして地震の後、球場を見回すと地面に起伏や地割れが起きていたんだそうで。
その地割れの写真を見せてくれました。
その後、『地震の時は広い場所に』という考えで球場に2時間ほど待機。
待機した後、学校のバスで自分の寮に。
寮に戻ると電気・ガス・水道は当然のように止まっていたものの、
鉄筋コンクリート製だったのが幸いしたのか、窓ガラスは1枚も割れておらず、
建物も多少ヒビが入ったくらいだったといいます。
その後が大変だったんだとか。
野球場と同様、寮も山の上にあるので山から市街地を見渡すと
町が燃えているテレビで何度も流れたあの光景が見えたそうです。(下の記事参照)
その日は食堂でみんな集まって雑魚寝状態で寝たそうです。
翌日、ボランティアの人(彼曰くタイ人)が来て食事をふるまってくれたんだとか。
ただ、その作ってくれた食事がマズかったらしく「自分が持っていた缶詰の方がウマい」とのことでした(笑)
彼が缶詰を持っていたのは災害対策ではなく、純粋においしい缶詰を日常的に自室に置いていたんだとか。
また、その日(本震の翌日)の朝には彼の友人が持っていたauの携帯が使えるようになり
家族に連絡を取ることが出来たんだとか。親に連絡したら『死んだと思った』と言われたそうです。
それから、再び気仙沼の市街地を見てみたら、瓦礫と化した町の中に船がぽつんと置かれているという
不思議な光景が広がっていたといいます。
もちろん、そんな状態では寮の外に出ることを学校が許してくれるわけは無く
親が迎えに来た大地震から4日後まで寮の中で過ごしたそうです。
食べ物に関しては、自分の缶詰とボランティアの人が作ってくれる
マズい食事を食べて何とかなったそうですが
3日目の晩に爆発音がして、窓の外を見たら近くの建物が炎上していたのには驚いたといいます。
山火事にならないかが心配だったと言っていました。結局、山火事は起きなかったそうです。
そして大地震から4日後、親が迎えに来て無事帰宅できることになったのだそうですが
その時に、現地でよく利用する大船渡線の車両が脱線・横転しているのを見て驚いたといいます。
宮城からの帰り方は、一般道で山形を経由して新潟へ。
新潟から関越道で帰るという、とんでもないルートで帰ってきたそうです。
ところで、彼は特に怪我などしていませんでしたが、
彼のクラスメート・先生など地元から通っている人は大被害を受けたそうです。
例えば、彼の担任の先生の家は炎上、クラスメートの一人の家は流され
学年に数人、焼死・溺死した者もいると言っていました。
しかも、彼が寮を出た時点では、全員の安否が分かっていなかったそうです。
学校の再開予定は未定と言っていました。