『ぼくらの』を考察する。
『ぼくらの(アニメ版)』全話見ました。
総監督さんである森田宏幸 氏の発言に関して文意の誤解で問題がありましたが、
まぁ、そんな話は置いといて。
最終回の最後の一文が非常に気になるので無駄にダラダラと考えてみようかねぇ~
古代ギリシャで暇な人が哲学者になったって話が分かるような気もするなぁ。暇だと色々と考えたくなるんだ。
あっ。哲学者が暇な人だなんて言ってませんからね。
んで、気になった最後の一文。
「ぼくら15人があつまり、そして。」
まぁ、気になったのは、文末の『そして。』という部分。
体言止めなんてもんじゃない、接続詞止めと来ました(笑)
こういうのが気になるんです。アニメ・ドラマなんかで多い、『あえて言わない終わり方』
そういえば、芥川龍之介の羅生門。あれも『あえて言わない終わり方』を用いていますね。
「下人の行方は、誰も知らない。」
「お前らは、どう考える?」というやつですね。
ここからは、僕が考えることですから、気にしないでください。あと、ネタバレ注意です。
実は、「ぼくら15人があつまり、そして。」という部分はアニメの別の箇所にも出てきます。
というか、第1話の冒頭ですが。
「ぼくら15人が集まりそして、 あれ、 あれに出会ってからだった。」
まぁ、『あれ=ジアース』と考えるのが普通でしょうが、他にも考えられます。
例えば、『ココペリ』『悪い心を持つ大人』『別の世界の地球』『現実』などなど
考えれば彼らが出会ったものは数え切れないほどたくさんあります。
つまり、「お前らは、『あれ』って結局何だと思う?」というのが『そして。』に含まれた意味なのではないか。
そう僕は(勝手に)解釈しています。
それじゃ、『あれ』とは一言で何と言えるのか。
僕は、『本当の環境』じゃないかと思います。
死が決まった子供たちは、自分の生活・人生を振り返るわけですが、そこで家族・友人・兄弟・社会
といったものを考えるうちに、自分の置かれている『本当の環境』というものを知り、
そして出会うことになるのではないかということです。
ちなみにもう一つ気になる点。
監督が、こう言っている。
原作にあるもっとも大きな謎は、なぜ、子供たちは死ななければならないのか?というものです
「子供たちはなぜ死ななければならなかったのか?」という原作最大の謎から私は逃げません。
(引用元 森田宏幸のブログ )
「子供たちはなぜ死ななければならなかったのか?」というのも考えさせられるところですね。
監督は、こう考えるようです。
それは「大人が負けてしまっているから」です。それは、この最終回において、最後の操縦者を送り出すことになった可奈の父親、宇白要次郎さえも、例外ではありません。私が作ったシリーズ後半のストーリーは、主にこの、負けていった大人たちの境遇を、子供たちが引き受けていくというものでした。
(引用元 森田宏幸のブログ )
これは、あくまでアニメ版監督が原作に対して言っていることですから謎の正しい答えとは限りません。
これに関しても少し考えてみます。
まず、謎は分けると2つ「なぜ子供なのか」という点、「なぜ操縦者が死ぬ必要があるのか」という点。
「なぜ子供なのか」という点に関しては考えようが無くもないです。
この物語では『まともな心を持った大人』は『悪い心を持った大人』に、ことごとく負かされていきます。
つまり、大人が操縦者に選ばれた場合、戦闘にならないのです。
まともな大人なら操縦前に殺害され、悪い心を持った大人なら市街地の故意による
破壊で経済を動かすことを目的に操縦するでしょうから。
だから子供で無くてはならないのでしょう。
「なぜ操縦者が死ぬ必要があるのか」という点に関しては、サッパリ分かりません。
敵に勝ったなら死ななくても良いと思うのですが・・・
まぁ、こんな所にしておきましょうかね。キリがありませんから(笑)
んじゃ、次回は鉄道ネタでいきたいと思います。
そんじゃまた(--)/
あ、マジレス乙とか言っちゃダメですよww
「KY」と同じ、最近の個人排斥の風潮の象徴ですからね。