ついに「トワノクオン」が完結しました。
う~ん、なかなかの名作になった。
ラストシーンに「オールドー」が登場して、また「秩序」という言葉を口にしたのが印象的だった。
常々、この「秩序」という言葉が気にくわない。
「秩序」とは、簡単にいってしまえば、ルールのこと。
でも、ルールといっても、あくまでも、その属する社会でのみ有効なもの。
その社会に属しないかぎり、適用されるべきものではない。
違う特性を持つ集団に対しては、別の「秩序」があってしかるべきと思うのだが・・・。
しかし、今の世の中は、その適用範囲を規定外に無理矢理広げようとしてはいないか?
その暴挙によって、多くの可能性が失われていないか?
「トワノクオン」のメッセージをそう受け取ったのは、間違いだろうか?
オールドーが構築する秩序には、アトラクターたちは邪魔な存在。
でも、アトラクターにはアトラクターの秩序があるはず。
それを無理矢理オールドーの秩序下で統制しようとすれば、確かに邪魔な存在にしかなりかねない。
同じ地面に生きているからといって、単一の秩序だけを正義とすれば、誰かが迫害されなければならない。
様々な秩序をお互いに受け入れ合えば、戦いを避けることができたと考えるのだ。
実際、我々を縛る秩序は、むしろ、多くの迫害者を生み出している。
最近、「ニート」と呼ばれている若者たちが増えている。
この「ニート」と呼ばれている者たちは、ただ単に「無職者」だけでは理解できない。
今の日本における秩序と「ニート」たちが共有する秩序が異なっているため、共存が不可能になっているのではないか?
そもそも、ルールが違うのだ。
むしろ、この「ニート」と呼ばれている者の中に、どれだけの有能な人材が埋もれているのか、考えたことがあるだろうか?
「ニート」たちと秩序を共有できれば、日本は、もっと多くの人材を輩出できるはずだ。
「ニート」は決して堕落者ではなく、違うルールを持つ有能な人材の宝庫なのだ。
飯田馬之介監督は、作品の完成を観ずして、この世を去った。
飯田監督が残したかったものが、異なる存在を受容することにあるのなら、我々は、残された者の使命として、このメッセージを実行しなければならない。
それが、死者への礼儀というものだ。
ラストシーン。
死ぬことも傷を負うこともできなかったクオンが、ケガをしていた。
これは、クオンが能力の一部を失ったことを意味している。
しかし、これからのクオンは、みんなと同じように、ケガを負う痛みを知ることができる。
異なる存在から同一の存在へ回帰することができたのである。
これからのクオンは、もう死ぬこともできない苦しみから解放される。
他人と異なる性質という呪縛から解放されるのだ。
他人と異なるということは、これほどまでに重くのしかかるものなのだ。
自分と異なる存在を、無理矢理自分の秩序の中に押し込めようとする愚行は、もう止めよう。
きっと、それがこの作品のメッセージなのだと思いたい。
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