ナガサキとヒロシマの日、が、過ぎた。
わたしは長崎県生まれだ。
義務教育の間、夏休みの登校日のうち1日は、原爆投下のことを学ぶ日であった。
必ず語部(かたりべ)の方が訪れて、話を聞いてきた。恐ろしい記録映像か映画、写真のスライドなどを見て、事前に折りためた折り鶴で作った千羽鶴を贈り、歌を歌った。
歌は、よく覚えている。
原爆をゆるすまじ、と、青い空は、どちらかだ。
前者はとても暗く、後者は物悲しい明るさのあるメロディーで、今でも歌えるほど何度も歌ってきた。
歌詞がまた、とても素晴らしく、忘れられるような、軽いものではない。
青い空は、の一部、
燃える8月の朝
影まで燃え尽きた
父の母の 兄弟たちの
命の重みを 肩に背負って 胸に抱いて
学んでいた当時、
戦争を知らないわたしたちは、
いったいどれくらい、この「重み」を理解していただろうか。
原爆をゆるすまじ、の一番、
ふるさとの街やかれ
身よりの骨うめし焼土(やけつち)に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
われらの街に
それでも、埋める身よりの骨のある者は、まだ幸いであったのだ。
確かにわたしたちは、このように
教育を受けた。
大人になり、
鹿児島へ数年住んだことがある。
同僚の彼女たちに聞いてみると、
原爆の教育への思い入れの温度差、
地元局の報道のありかたが、あまりにも違いすぎて、かなり驚いた。
全国が同じように原爆について登校日に見聞きしていたわけではなかった。
とりわけ、同じ九州にあっても、此処まで違うものなのだろうか、と、愕然とした。
いまでは、親の苦情があり、
あまりエグい映像や写真を見せていないと、聞いたことがある。
「ウチの子が写真を見て恐怖におびえている」「見た写真を忘れられず苦しんでいる」「話を聞いて、具合が悪くなっている」等の苦情らしい。
実際にその教育を受けているから、
言い分は、よくわかる。
けれど、それでいいのだろうか。
そういう現象こそが、平和であるということの裏打ちなのだろうか。
心的症状に残らないよう、
幼い頃に見せないで、
ある程度大人になってから、見るべきかもしれない、とも思う。
社会科見学で訪れた原爆資料館の恐ろしさは、計り知れなかった。
今はわからないが。
知覧の特攻隊記念館とは、
また、全く違うものだ。
東日本大震災のあと、
震災にあった建物をのこすの残さないの、という報道や、仮設暮らしの不平不満や、補償問題や、お涙頂戴報道に、毎月11日に必ず震災を思い出させる関連ニュースが流れている。
東日本の被災者からさえ、思い出すからもういい加減に放っておいてほしい、というグチを聞く。
神戸の友達も、
毎年いい加減にしてほしい、という。
けれど、
終戦から71年目に向かう今日でさえ、
長崎県の実質国営放送局からは、毎日まいにち「原子力」「核廃絶」「被爆者」こういう言葉が朝から晩まで聞こえてくる。
だから、神戸の友達には、あきらめろ、と言ったことがある。
被災地だから、だ。
戦争は、絶対になくならない。
人の歴史は、戦無くしては、決して語れないからだ。
歴史は、繰り返す。
戦いこそが人が人である証だからだ。
それでも、
声を上げないことには、
ウッカリ忘れてしまうから、
毎日まいにち、誰かが「反戦」「核廃絶」と言い続けるのだろう、と思う。
ただ、それらが実に地域限定的なのが、何か、悲しい。
また、
国会会場前で起こっていたデモが、
地方のわたしたちに届きにくいのと、同じように、何か、悲しい気持ちを拭えない。
悲痛な声を上げ続けてきた被爆者語る会の声も、隣の県にも聞こえないで、そんなこと、おかまいなし、だなんて、滑稽としか、言いようがないくらい、惨めで哀れな場景ではないか?
終戦記念日がやってくる。
テレビでは、興味深そうな番組が次々に組まれている。
戦争は、テレビの中のハナシではなく、常に日常に、隣に、あることを、全国が理解していてほしい、被爆地という言葉の社会的な地域格差を縮めるべきだ、と、そんなことを毎年考える。
今もまた、
そう考えて、
これを書いている。
頭の中では、原爆をゆるすまじが、流れている、これはもう、洗脳の一種かもしれない、などと思いながら。
わたしは長崎県生まれだ。
義務教育の間、夏休みの登校日のうち1日は、原爆投下のことを学ぶ日であった。
必ず語部(かたりべ)の方が訪れて、話を聞いてきた。恐ろしい記録映像か映画、写真のスライドなどを見て、事前に折りためた折り鶴で作った千羽鶴を贈り、歌を歌った。
歌は、よく覚えている。
原爆をゆるすまじ、と、青い空は、どちらかだ。
前者はとても暗く、後者は物悲しい明るさのあるメロディーで、今でも歌えるほど何度も歌ってきた。
歌詞がまた、とても素晴らしく、忘れられるような、軽いものではない。
青い空は、の一部、
燃える8月の朝
影まで燃え尽きた
父の母の 兄弟たちの
命の重みを 肩に背負って 胸に抱いて
学んでいた当時、
戦争を知らないわたしたちは、
いったいどれくらい、この「重み」を理解していただろうか。
原爆をゆるすまじ、の一番、
ふるさとの街やかれ
身よりの骨うめし焼土(やけつち)に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
われらの街に
それでも、埋める身よりの骨のある者は、まだ幸いであったのだ。
確かにわたしたちは、このように
教育を受けた。
大人になり、
鹿児島へ数年住んだことがある。
同僚の彼女たちに聞いてみると、
原爆の教育への思い入れの温度差、
地元局の報道のありかたが、あまりにも違いすぎて、かなり驚いた。
全国が同じように原爆について登校日に見聞きしていたわけではなかった。
とりわけ、同じ九州にあっても、此処まで違うものなのだろうか、と、愕然とした。
いまでは、親の苦情があり、
あまりエグい映像や写真を見せていないと、聞いたことがある。
「ウチの子が写真を見て恐怖におびえている」「見た写真を忘れられず苦しんでいる」「話を聞いて、具合が悪くなっている」等の苦情らしい。
実際にその教育を受けているから、
言い分は、よくわかる。
けれど、それでいいのだろうか。
そういう現象こそが、平和であるということの裏打ちなのだろうか。
心的症状に残らないよう、
幼い頃に見せないで、
ある程度大人になってから、見るべきかもしれない、とも思う。
社会科見学で訪れた原爆資料館の恐ろしさは、計り知れなかった。
今はわからないが。
知覧の特攻隊記念館とは、
また、全く違うものだ。
東日本大震災のあと、
震災にあった建物をのこすの残さないの、という報道や、仮設暮らしの不平不満や、補償問題や、お涙頂戴報道に、毎月11日に必ず震災を思い出させる関連ニュースが流れている。
東日本の被災者からさえ、思い出すからもういい加減に放っておいてほしい、というグチを聞く。
神戸の友達も、
毎年いい加減にしてほしい、という。
けれど、
終戦から71年目に向かう今日でさえ、
長崎県の実質国営放送局からは、毎日まいにち「原子力」「核廃絶」「被爆者」こういう言葉が朝から晩まで聞こえてくる。
だから、神戸の友達には、あきらめろ、と言ったことがある。
被災地だから、だ。
戦争は、絶対になくならない。
人の歴史は、戦無くしては、決して語れないからだ。
歴史は、繰り返す。
戦いこそが人が人である証だからだ。
それでも、
声を上げないことには、
ウッカリ忘れてしまうから、
毎日まいにち、誰かが「反戦」「核廃絶」と言い続けるのだろう、と思う。
ただ、それらが実に地域限定的なのが、何か、悲しい。
また、
国会会場前で起こっていたデモが、
地方のわたしたちに届きにくいのと、同じように、何か、悲しい気持ちを拭えない。
悲痛な声を上げ続けてきた被爆者語る会の声も、隣の県にも聞こえないで、そんなこと、おかまいなし、だなんて、滑稽としか、言いようがないくらい、惨めで哀れな場景ではないか?
終戦記念日がやってくる。
テレビでは、興味深そうな番組が次々に組まれている。
戦争は、テレビの中のハナシではなく、常に日常に、隣に、あることを、全国が理解していてほしい、被爆地という言葉の社会的な地域格差を縮めるべきだ、と、そんなことを毎年考える。
今もまた、
そう考えて、
これを書いている。
頭の中では、原爆をゆるすまじが、流れている、これはもう、洗脳の一種かもしれない、などと思いながら。