歌を唄う、歌手のプロに、
私は言いたいことがある。

たとえば、初レコーディングされた曲。
ファン以下の聴き手は、
それが『その曲』だと耳に刻むのだ。
人の五感は、
実に緻密な精密さを、
時としてに発揮するもので、
ほんの少しの差に、違和感をもつ。

なぜか、
時が経つと歌手は自分の曲を
妙な節回しで唄うクセがあるようで、
『その曲』だと思って
油断して聴いていると、
そのアレンジが気持ち悪さと不快感を、
もたらしてくれる。
崩して歌たわれたら、不愉快で、
格好良くも、新鮮でも、ない。

オリジナルのレコーディングが、
聴き手には『その曲』なのであり、
初めて聴いた『その曲』が『その曲』なのだ。

歌が流れてきたら、
一緒に口ずさむ人は、いないだろうか?
そのとき、違うテンポや、
妙な節回しで歌われると、
ズレてしまって、
なんだか嫌な気分にならないか?


ベンチャーズは、
絶対に同じ様に演奏する。
布施明も、ほとんど同じ様に唄う。
佐々木功の『ヤマト』もそうだ。

人は、流れる時とともに変わっていくが、
変化しない良いものの価値も、
知っている。

忌野清志郎も、
ほとんど同じ様に唄っていた。

大事なことだ。

それはアレンジ出来ないからではない。
忠実なのだと思う。

たとえば、
クラシック音楽の楽譜について、
小澤征爾が、
すべての情報が、そこに記してあって、
作曲者の意図がなんであれ、
譜面がすべてであり、
指揮者は、いかに忠実に再現し、
演奏させるか、
それを指示しているだけなのだ。
と、そのような旨を話していた。
それを聞いて、私はやっと彼を信頼するに値する、と評価した。


余談だが、
ライブステージがホームだった
ボ・ガンボスは、いつも少しずつ違っていたけれど、それが彼らのスタイルであり、肝腎なメロディは、それでも、
オリジナルに忠実だった。
そもそも彼らのオリジナルは、ライブステージだったので、レコーディングされたものは、むしろ違和感があったのだけれど。


好きな曲を崩されて歌われると、
冒涜されたような気分になる。

愛着のある曲は、半世紀経っても、
同じ様に『その曲』であってほしい。
聴き手に、歌い手のアレンジなど、
迷惑行為にほかならない。
せめて自分の曲くらいは、
そうして守ってほしい、と思う。


私が保守的なのだろうとも、
切にそう願う。